2015年7月31日金曜日

[や]2 山村暮鳥~「ばくれつだん」としての詩と詩想~


目次
はじめに  1 初期の詩篇  2 初稿本『三人の処女』という〝詩館〟  3 経歴と詩歴  4 二つの『三人の処女』の異同~急進的な詩作活動~  5 先取りされた言語世界~『聖三稜玻璃』の世界~  6 前衛詩の同時代評  7「ばくれつだん」としての詩と詩想  おわりに~詩人の困難~ 


はじめに

 詩とは何なのか、ではなく、その人にとって詩とは何なのか、この問いを生涯の詩想としなければならなかった一人の詩人がいる。しかも終始「受身形」のままで。山村暮鳥(明治17年(1884)-大正13年(1924))である。彼の場合は、作品だけでなくそれ以上に詩歴上の変遷が詩論と等号関係を結んでいる。詩歴自体が問いを構成してしまうからである。大半が「能動形」に内面を確保する日本近代詩の詩人たちにあって、その内面観と保持の仕方は特異である。彼の問題は、日本近代詩を従来にない視点で相対化するはずであるが、文脈の上からも別の機会としなければならない。今回は近代詩論(詩人論)の一歩手前に辿り着くのを一応の成果とする。

以下、詩人の詩歴に沿いながら、詩歴の何が問題なのかを明らかにしてみたい。年譜的な記述に当たっては、暮鳥研究者の第一人者和田義昭の労作『山村暮鳥研究』(昭和43年(1968))収載の「山村暮鳥年譜」及びその後同氏が関与した『山村暮鳥全集』第4巻(1990)収載の、やはり同氏作成の「年譜」を参照した。その他巻末文献の評伝ほか暮鳥論等で知見を深めた。

 副題の「ばくれつだん」は、次の暮鳥自身の言葉から採っている。「小生は今の文壇乃至思想界のために、ばくれつだんを製造してゐる」である。時代に超然とした前衛詩『聖三稜玻璃』の刊行を前にして知己に送った封書(小山義一宛、大正4915日)のくだりである。序に続きを掲げておけば、「この詩集、今世紀にはあまりに早き出現である、千万年後の珍書である。これ小生の詩集にして小生のものならず、即ち人間生命の噴水である、その聖くして力強きをみよ――」のとおりである。なお「ばくれつだん」を行論中に修飾語的意味合いを持たせて使うものは少なくないが、「ばくれつだん」を表題に採用した暮鳥論に「山村暮鳥という〈ばくれつだん〉」(北川透1995)がある。

 筆者の暮鳥への関心を高めたのは、大岡信の魅力的な暮鳥論(大岡19691977)及び萩原朔太郎論の一環として前段的に取上げられた上記北村透の暮鳥論であったが、『聖三稜玻璃』を超えて体系的に深く掘り下げようと思ったのは今回が最初である。参照すべき文献には当たり切れていないが、上掲和田の労作(全集編集を含む)なしには本論は一歩も前に出られなかった。加えて暮鳥を総体的に捉える上にも論拠とする上にも多くの知見を与えてくれたのは、田中清光と中村不二夫の高著(田中1988、中村2006)であった。ほかの巻末文献とともに本論の前提である。



 1 初期の詩篇
 
歌から詩へ 山村暮鳥の詩歴は、当時の多くの詩人がそうであったように短歌からはじまる。その投稿歴は、岩野泡鳴らが結成した純文社の機関誌『白百合』14号(明治37年(19032月)にはじまり、同誌42号(明治3912月)まで続けられる。投稿は定期的でかつ定量的である。年齢的には20歳から22歳の神学校(聖三一神学校)時代である。作歌数は計279首に上る。まだ「暮鳥」は名乗っていない。木暮流星の筆名である。『白百合』以後は、『中学世界』『詩歌』ほか赴任先の新聞紙上(『秋田魁新報』)ほかを発表先とし、詩作に転換した後も点数は少なくなるものの、死の前年の大正12年までの歌が残されている。

歌詠みは、早く少年時代にはじまり、代用教員時代(明治3235年)に受け継がれたという。投稿最初期と神学校時代最後の投稿歌から一首ずつ掲げておく。

  さらば君白衣さきてわれ行かん野にはいなごの(うゑ)もあるまじ
(『白百合』14号明治372月)
  明日もまたあけては山を木枯しの雲とぶ日なれ冬のこもり居
                  (『中学世界』107号明治406月)

 詩作は神学校時代に開始される。筑摩書房版『山村暮鳥全集』第1巻「解題」(和田義昭)では、第1詩集(大正2年)以前を「習作期」として同期をさらに「前期」「後期」に分ける。神学校時代は習作前期となる。

 最初の詩作品は、雑誌『築地の園』に掲載された作品である。同誌は、聖三一神学校(築地)をそのなかに包摂する立教学院の校友誌的な雑誌である。同誌を舞台として習作前期の前半段階の作詩活動が展開されていく。発表年月は、明治39年(190610月から明治42年(19095月までで、作品数は12を数える。最初の詩は、同誌第87号(明治3910月)に掲載された「播種者」であった。作歌と作詩の間に一部重複期間が見出せるものの、創作状況としては、短歌から詩に発展的に移行していったことが分かる。事実、それを裏付ける、「小生はもう三十一文字をやめ申し候、この頃は長詩のみ作りをり候」の書簡(小山義一宛・明治40529日)がある。書簡直前の詩作品を一篇だけ見ておく。

   死

一夜(ひとよ)のたくみなる
綱はりて人はまつとも
しらで来し小鳥の一羽。

うらゝかや野の(あした)
宵の雨はれて麦田を
かけゆきし若者のあり。

うれしげのかへり路
さながらに夢のこゝちの
春霞村をつゝみつ。

桃のさく里へとて
いだかれて行く袖の中
()」となきぬ鳥はその名を。
(『築地の園』第91号、明治402月)

  24歳時の作品である。20歳で神学校に入学するまでに3回自殺を図ったという暮鳥ならではの「死」が、単なるイメージに終わらずにどことなく実感を伴って不気味である。「野の朝」「麦田」「春霞」「桃のさく里」が、ありきたりの「死」を違う形に印象させて、末尾の「「()」となきぬ鳥はその名を。」の結束効果的である。神学生としていささ不穏当な死との対峙の仕方である。伝道師時代の混沌(信仰と実存)を先取りしているかのような調べである。詩語としての「麦田」は後年の詩篇に頻出する語彙であるが、当初からの拘りであったの興味深い。もう一篇掲げておこう。

白鷗

潮みち来る。
わが船は錨を捲きぬ。
曙の
海しろしめす(たなぞこ)
すべりて真帆(まほ)はあたらしき
春を孕みぬ。――
(あま)さす日、
と見る神使(みつかひ)、夢の白鷗(かもめ)
みちしるべ。
(『築地の園』第100号、明治411月号)

 卒業半年前の作品である。こちらは上掲と違って、修道者としての我が身を然るべく標題に掲げたような詩篇である。目の前に迫った将来の赴任を思い、いささかの胸の高まりとともに白鷗に見立てた飛翔感が胸中に去来していたことを思わせずにはいない、生き生きとした高揚感を伴った作品である。


精力的な詩作 神学校を明治416月に卒業した暮鳥は、伝道師として秋田県に赴任する。湯沢の秋田聖救主教会を皮切りに同年11月には横手の講義所への転任を果たす。1年後の明治4212月には仙台への転任となる(日本聖公会仙台基督教会)。赴任地ごとに地元紙(『秋田塊新報』『仙台日々新聞』『羽後新報』)に精力的に作品を発表する。自身で興した雑誌『北斗』への掲載も、さらに作品数の増加に拍車をかける。

 神学校時代の文語調から口語調に転じた詩作の数々は、極めて意欲的ながら水準としてはいまだ習作域にとどまらなければならない。それでも後の革新的詩編へのたしかな足音を端々で聞くことができるのは、枯渇することを知らない創作意欲とともに注目される詩才の開扉である。湯沢に転じた直後の作品に「若い芸術家へ」の詩篇がある。同作品に認められる二項対立的な修辞法は、後日の先取りを思わせるものである。参考までに掲げておこう。

若い芸術家へ

死人と人と、
(いぬ)と妊と、
恐怖と昼と、
夢と、愁嘆(なげき)とマラルメと、
爆裂弾のよろこびと、
しかして意義ある内容を、
――肉の色糸で、
(しつ)かり結べ
生白(なまじろ)(やつ)れた頸に
(『秋田塊新報』明治411115日)
 
上掲「白鷗」と同年の作とは思えない口語調への変貌ぶりである。また「若い芸術家」の修辞は、使われる詩句の相違もさることながら、「白鷗」の詠嘆に対して剥き出しで吐き出し方も粗野である。暮鳥の変貌ぶりは当初からかく際立っているが、たちまち一定の水準を得てしまうのも特徴的である。生来の詩人のなせる業なのかもしれないが、詩才を衝き動かすものは何であったのか、「習作期」といえども、本稿の主題にかかわる部分で早い段階から習作に勤しんでいたのではないかと考える時、宿命づけられていたかのような貪欲なる詩精神とその先鋭化が印象的である。


「習作期」の「詩集」 さらに詩作活動は旺盛さを増していく。そして、「習作前期」の総仕上げともいうべき一冊の詩集が編まれる。『LA BONNE CHANSON』(明治4381日発行、松営堂書店(仙台))である。詩集と言っても体裁は5篇の詩を収めただけの、本文10頁にすぎないパンフレット詩集である。詩歴上も最初の詩集とは数えられていない。2年後の未刊にとどまった『初稿本 三人の処女』では同パンフレット詩集から3編が録られている。

同パンフレット詩集刊行時の状況は、明治後半の一世を風靡した泣菫・有明の象徴詩の後を承けるかのように、北原白秋の『邪宗門』(明治423月)が満を持して刊行されたばかりである。白秋をはじめとした浪漫主義的な詩的活動は、「パンの会」として芸術活動一般の高揚を促す。また他方では口語自由詩の初期的活動が、自由詩社の結成(明治42年)を生み、機関誌『自然と印象』の発刊となっていく。暮鳥は、遅れて翌432月に同詩社の一員に加わることになる。中央詩団との本格的な関わりである。以上を時代背景としてパンフレット詩集から一篇を掲げておこう。

   影

葬送(とむらひ)(かね)が鳴ります。
ぱつたりと風が止み、
あれ、音も匂も彩色(いろどり)までもみんな静かな地平にかくれて、
大空の夢には月が浮きました。

荒廃(くわうはい)の園から心の行列の
蟻が正午(まひる)を急ぎます。
『墓は何方(どちら)です?』

葬送の鉦が鳴ります。
ああ、膝の枕のやはらかき……
LA BONNE CHANSON』明治4381日発行
 
自由詩社の一員に加わったとはいえ、この作品などを見るかぎりは、詩境に長く伸びる白秋の「影」を思わないわけにはいかない。早くも次なる変貌が準備されているかのようである。


幻の第1詩集 続いて「習作後期」を迎える。前期との違いは、投稿先(寄稿先)が中央の複数の詩誌へと拡大的に広がっていったことである。中央誌での掲載は、作品の社会関係を深める。水準に対する自己確認の機会ともなる。自信もつく。やがて詩集刊行は秒読み段階となっていく。諸誌掲載詩を編んだ習作期の一大集成となる『初稿本 三人の処女』が、かくして明治453月に企図されるのである。しかし結果として刊行には至らなかった。直接の原因は、出版社の火災であった。幸い原稿は焼失を免れたものの、幻の第1集のままとなって、第1集の栄誉は、別の『三人の処女』(大正25月)にその座を譲ることになる。詩集名は同じながら内容はまったく違うものである。

なぜ、未完のままに止め置かれていたのか、大正2年版と読み比べれば理由は明らかである。災禍後約1年の間に暮鳥の詩境が変化したためである。ただし純化である。文語調の韻律を重んじ、修辞的な整然性を希求したのである。言い換えれば、『初稿本 三人の処女』の詩行が繰り広げる放恣を嫌ったのである。

たしかに純化によって刊行版は詩集としての密度を高めた。放恣性が除かれたからである。しかし、詩集としての魅力は、純化とは逆な結果を生むことになる。小じんまりとまとまってしまったたからである。あらためて「放恣性」の魅力が問われることになる。それに時間は作品を過去から解き放つ。本来なら旧作の刊行に意欲的であった後年と同じように刊行すべきであった。安西冬衛は、「時間」によって作品が「背伸び」するようにも語っている(「余白」)。放恣性の魅力は、さらに高まっていたはずである。それとも相変わらず「習作」だと思い続けていたのであろうか。そうではなかった。未刊の理由は別なところにあったのである。「自由詩社」の同人に参列していたことだった。実は「過去」から解き放たれていなかったのである(後述)。



2 初稿本『三人の処女』という〝詩館〟

多様な詩的発想 『初稿本 三人の処女』(以下『初稿本』)は、総数69編からなり、全体を幾つかのタイトル(詩節)によって分ける。「汝の声より」「黄」「LA BONNE CHANSON」「噴水」「凋落の時」「鸚哥小曲」「感触と写生」「えぴろぐ」のとおりである。刊行本『三人の処女』(以下『刊行本』)も同様にタイトルで詩篇を分っているが、一瞥して明らかに違うのは、「汝の声より」のような人格を前面に立たせないことである。詩空間の間の保ち方が異なるのである。次の「汝の声より」の一篇は、『刊行本』を構成しない作品である。

蜥 蜴

朗爺(ろぢい)さんは死にました。
蜥蜴(かなへび)喰つて死にました。
しやぼん玉やが街にきて
おどけた拍子のうた唄い、
赤い喇叭(ラツパ)を吹いた日に
血の嘔吐(へど)はいて死にました。
それでも禿げた黒塗の
椀と箸とは手離さず、
五朗爺さんは死にました。

それを子息(せがれ)の嫁がみて
面目なさに逃げました。
こんな時でも思ひだす
芝居狂ひの(しうとめ)
金の入歯と光る眼と、
なにはさておき女ゆゑ
髪掻きあげて帯しめて、
嫁は大きな七月(ななつき)
(なか)抱えて逃げました。
(初出誌未詳)
 
直截的で辛辣な内容ながら、言い回しはおどけた童謡調で、シリアスな内実を誤魔化し気味に辿ろうとするところに趣意がある。文語調の整然さを思えば録られるはずがない、放恣な選外品ながら、かくおどけが個性的な詩行を生み出している。故に『刊行本』は、個性を抑える方向に詩的調和を保とうとしたことがあらためて分かる。そういう意味で『初稿本』は、詩的調和に対してはなるほど「習作」かもしれないが、それを超えた豊かな詩的発想の現場が実現されているのである。いくつか拾ってみよう。

私の希望は……
  
  1
昼が斜になつて来て、
北から風が吹くのに、さ。
どこかで煤煙(けむり)立つやうな心が動いてゐるのに、さ
土色の機虫(ばつた)が飛んでゆく方へ
草の枯葉(かれば)が靡いてゐる。

野菊を(むし)つて投げたのは 
恋も知らない日の所業(しわざ)

蜻蛉でも、都会の蜻蛉は神経質、
人さへ見れば怖がるのに
あれ、まあ――なんて「記憶」はなつこいんだらう。
それはさて、かうした思いにつまされて
泣くにも泣かれぬ
身の上だ、とは知りながら
ええ、おぼえたか、薄情者。
(『劇と詩』第6号、明治443月)

「さ」「あれ、まあ」「ええ」などの、会話文の常套句ともいうべき感動・感嘆の副詞が、詩想にまで深く潜入してかつ語調の牽引役を買って出ている。しかも一方では、「それはさて、かうした思いにつまされて」などの文語調を不用意に挿入させて響きが一本調子になるのを防ごうとする。口語詩に対する実験的試みである。それ以上ではないと水準を問われてしまうかもしれないが。

月の出

河岸(かし)
柳に、
月が出た。
その月が青塗の壁のやうな彼方(あちら)の空をのぼつて行く。

美しい夜の世界の入口に立つた私。
春の渚、
沖から白い汽船が入つて来る。
湾内には、まだ吹残された風のかなしげな怪しい光……

その髪には黒い花が
挿してあつた。
ああ、鷗!
ひろい……私の胸のどこやらに女を(なく)くした夢のやうな痛みがある。
溶けてながれた海の色、
汽船は笛を鳴らし()めて赤い舷燈をたかくあげた。
さあ、希望をはぐれた私の視線よ。
(『早稲田文学』第64号、明治443月)
 
語調の平板化を許さないとする工夫は、文語調への傾斜をちらつかせながら、いささか思い付き気味に瞬時にして詩行を組み立てていく。『刊行本』ではほとんど鳴りを潜めてしまった詩篇の類である。後年の第3詩集(大正7年)以後の平易な口語調とも違う、初々しい詩興には、いろいろな可能性が読み取れる。ほかに進む道もあったのではないか、暮鳥の豊かな感性にあらためて感興をそそられる。これを含めて『初稿本』の独自性であり面白さである。

次は、代表作『聖三稜玻璃』に発展的に繋がる散文詩調の詩篇である。やはり大正2年の『刊行本』では録られていない世界である。

秋の歌

Ⅰ 遠景

見よ、白楊の地にひく影を。そのあたり怖ろしい沈黙と憂鬱とに獣類(けだもの)の態度をくづさず、佇立(たたず)める牛の一群。
十月の遠い牧場……たまさかに相呼びかはす太い厳めしい声のやるせなさよ。
ああ、萄国(ポルトガル)の革命はどんなだらう?

見よ、柵外にわかい女が顕はれると其方へよりつどふ彼等、乳房の垂下つた雌牛、黄牛(あめうし)、その傍をはなれぬ(こうし)、或は柵の上から頸をのばして路側(みちばた)の草の匂ひをかぐのもある。
しづかな、しづかな、けれど鈍つた気分の白き断崖。空にとびかふ赤い蜻蛉はどこから来たのか、それが黒くなるほど密集して秋色(しうしよく)の層をなす時、

あはれ、夕日の平安よ。
太陽はBULLの声より沈んでゆく……

かかる時、営舎のたのしい喇叭がきこえ、ゆふひの雨が市街を打つあはただしさに思ひやる、かかる日の騒乱。
やがてその柵の一方があたらしい思想の如くにひらかれた。
彼等は、かのわかい女に追ひたてられて鏡の如き瀦水を(わた)り、僅かにそれを汚しながらも本能の強きもとめの夢に、赭土(あかつち)の、長き傾斜をその厩屋(こや)へと各自に急ぐ。
(『詩と劇』第3号、明治4312月)
 
文語調と背中合わせの韻律を、機会を見て口語調に立て直そうとしている発声が、文語調としても新味で耳触りのよい調べを残す。一方で長行化(散文化)にも別の新味が潜んでいる。意味の立て方である。同時に続け方である。第1聯末尾の「ああ、萄国(ポルトガル)の革命はどんなだらう?」の、不用意な独語故の、長行を限るどこか裏切りめいた語調に浮か散文的なしかも口語的な意味、あるいは「赭土(あかつち)の、長き傾斜をその厩屋(こや)へと各自に急ぐ。」の最後を文語調に戻して終息の仕方に浮かぶどこか余韻を留めた懐旧的な文末処理。技法としての体言止め(「それが黒くなるほど密集して秋色(しうしよく)の層をなす時、」)と聯を替えて二行にまとめかつ終止形に詠嘆を保たせた一行の形(「太陽はBULLの声より沈んでゆく……」)との対比的な使い分けである。全体に重唱的であるが、高唱よろしきというわけではない。つとめて新しい内声に企図的である。

 後の『聖三稜玻璃』を見据えると、文語的な言語の膨らみにさらに背を向けて、意味的にも非連続を勝ち得て、詩的効果を高めたものに次の詩篇がある。やはり『刊行本』で録られなかったものである。

雪の翌日

煙突からのぼる淡い浅黄のけむりのゆく()よ……
柳で光る水蒸気、
孕んだ雌犬(めいぬ)(なぶ)る若いSTATION駅夫(えきふ)(たち)のむごたらしい事つたら。

響の、銀の軒の点滴(しづく)

家毎に
物を、
干してる。

何処(どこ)かで女の
笑ふ声。

そうした、
複雑な色彩ばかりの生活にも(いと)のやうな悩みがある。
斑消(むらぎ)えの春の雪――

(まぶし)いその()は何をきくのか、
街上のあちらこちらの乾いた場所(ところ)に夢のやうな雑草(はぐさ)生えてゐる
『早稲田文学』第64号、明治443

最後の2行は、必要か否かの詩行的評価の別れるところである。要らないとする意見も聞こえてくる感じがするからである。あるいは抒情を高める叙景句として改変的に冒頭の詩行と布置しなおすべしとする見解も聞かれそうである。それというのも、「斑消(むらぎ)えの春の雪――」で断絶的に終えた方が収束度も高まるからであるが、それは単なる語感だけではなく、意味の非連続を詩的充実に変換する、詠嘆的な体言止めだからである。初稿本詩篇全体を貫くような集約性は乏しいとしても個々の詩篇や詩行には随所に詩的実践への意欲的な試演の姿見え隠れしている。日本近代詩にあっても驚くほど多彩な詩才である。

掲載誌である『早稲田文学』の同号(第64号)の顔触れを見ると、田山花袋、高村光太郎、正宗白鳥、相馬御風、与謝野晶子、石川啄木等である(『全集』「解題」)。諸氏に向かっても十分に挑戦的な作風であった。詩才は、常時、戦闘態勢を崩そうとしなかった。

 そして詩集巻末を飾る「えぴろぐ」とされたタイトル(詩節)に納められた一篇の詩がある。本文中の果敢な試みを一段高い壇上から見渡すかのような、そして演者たる自身の試演を自己概念化するかのような、自信に溢れた声高な響きを詩行に行き渡らせた詩篇である。「習作後期」のエピローグとしても掲げておきたい。

   祈 禱

憐恤(あはれみ)ふかき眼をもつて、我が、嫉妬につかれしアルテミスよ!
われはさ迷う(はね)黄色な蝶となり、汝が肉の歓楽の園を離れ、暴風(あらし)と雨と(つれ)なきFACTに悩みをとらへ、一日の安きも無し。

然れども女神(めがみ)よ、愛の天華(てんげ)よ。否、毒性の我が青白き幻惑(げんわく)よ!
吸ふべき蜜の微睡(びすい)罪悪(つみ)とに、すべての夢の滴りの集りかがやくが如く、我は汝の、の美しき悲哀に充てる唇をしきりに慕ふ
ああ、女神!

暗き夜の、心の宮殿(みや)点火(ひとも)たまへ
冷えゆく額上(ひたひ)接吻(くちつけ)を……

我は懺悔(ざんげ)に帰りたれり。
願くは、今より汝の、見ずして残せるあえかの(うつゝ)をくり返して、汝のために、野の、水のほとりの小鳥の如く、滅びゆくもの限りなき生命(いのち)のうめきを歌せたまへ。
霊魂(たましひ)に、赤き夕日す頃を……
(初出誌未詳)



 3 経歴と詩歴

詩人の経歴 次の詩集に移る前にここで神学校入学までの経歴とその後の詩歴を簡単に記しておきたい。ただし詩歴は、詩作開始の契機となった神学校から第1詩集刊行までとし、合わせて第2詩集までを見通しておきたい。まずは生い立ちから神学校入学までを辿る。

明治17年(1884)、群馬県西群馬郡棟高村(現高崎市)に農家の「二男」として生まれるが、戸籍上は実父(木暮久七)の子としては届けられていない。志村家に婿入りした実父が、義父志村庄平に疎まれ入籍を許されなかったためでる。同じ家に住みながら「実父」は、久七ではなく祖父の志村庄八であった。志村八九十と名付けられた暮鳥は、庄八の「二男」として届けられたのである。特殊な生い立ちと言うほかない。笑い声一つ立たない暗い毎日であったという。

それから5年経った明治22年(1889)、確執に耐え切れず、父久七が千葉県佐倉に出奔。母シヤウも子供たちを残して後を追う。親に置いておかれた子供たちは外に遣られることになる。暮鳥が預けられたのは、伯父の木暮作衛(前橋市田町)であった。神官だった。父久七は程なくして立ち戻ったものの志村家には戻らず、実家の木暮家に里帰りしてしまう。暮鳥も実父のもとに連れ戻され、実父の「養子」として入籍する。木暮八九十となる。

明治23年(1890)、元総社尋常小学校に入学。翌年、祖父庄八死去。志村家に戻った父久七とともに同家に入り、堤ヶ岡尋常小学校に転校する。明治28年(1895)、久七が事業(繭の仲買業)に失敗。花園高等小学校(国府村)に在籍していた暮鳥も2年生の途中で中退し、璃村しなければならなくなった父母と新たな土地(榛名山麓の上郊村)に移住する。物置小屋を借りて小作農に勤しむ父母の手助けに明け暮れながら、傍ら同地の寺院にて住職から四書五経などの漢籍を習う。明治32年(1899)、母校の堤ヶ岡尋常小学校臨時雇いとなる。15歳ながら18歳と詐称しての採用であった。

明治34年(1901)を迎える。同年1月に開校された前橋聖マッテア教会英語夜学校に通学(往復7里を毎日徒歩)。運命を切り拓く通学となる。2月訓導任命。翌明治35年(19026月、同教会にて受洗。8月、同じ聖公会の日本聖公会高崎講義所の宣教師(ミス・ウォール)に従って青森市に通訳として移住。翌明治364月、聖マッテア伝道学校(東京佃島)に入学(ミス・ウォールの尽力)。後、築地の聖三一神学校に編入学。同校は立教大学内に並置された牧師養成機関であった。

以上が、一人の詩人を生み出す生い立ちから詩歴開始までの来歴である。幼少年期の家庭環境は、当時としても一人の子供を鬱屈した人格に導くに事欠かない条件を備えていた。次の詩歴に移るまでに本人によってその一端を語ってもらう。

父は婿であつた。母は泣いてばかりゐた。自分が姉さんとよんでゐた母の妹は真赤な血嘔吐(へど)をはいて自分の四つの春に悶死した。自分にはおばあさんと呼ばねばならぬ人がかはりがはり幾人もあつた。大きな家は陰鬱でいつもごたごたしてゐた。他家(よそのいえ)のやうに自分の家では笑ひ声一つ立てるものがなかつた。(「反面自伝」(同著『小さな穀倉より』)より)

 なお、「おばあさんと呼ばねばならぬ人がかはりがはり幾人もあつた」とは、祖父庄八の「放蕩癖」(田中1988)を婉曲に言い表したものであった。


詩歴と経歴 以下はまず事実関係の列記からはじめる。聖三一神学校入学(明治369月、19歳)以後、一時(約1か年)の軍役(旭川入営及び渡満)を挟んで同神学校を卒業。明治416月の24歳時であった。直ちに伝道師として秋田県に赴任。その後、福島県平町の講義所に着任(明治449月)するまでの変遷は、次のとおりである。

①秋田県秋田聖救主教会(明治418月)→②秋田県横手町横手講義所(同年10月)→③秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所(同422月)→④日本聖公会仙台基督教会(同4212月)→⑤東京諸聖徒教会(同4311月)→⑥常陸太田講義所(同4411月)→⑦福島県平町日本聖公会平講義所(大正元年9月)

以上の変遷を詩作活動と重ねると、①~③では地方紙投稿・寄稿『秋田魁新報』(1年間に70編以上)ほか、さらに③では雑誌『北斗』(明治426月創刊)の中心的存在として詩の発表を毎号のように行なう。こうした地方での活躍の一方で、③の段階には、上京して人見東名との面会を果たす。これが縁で④の段階で自由詩社の同人に迎えられることになる(同431月、26歳)。詩歴上の大きな画期となる出来事であった。「自然と印象から詩壇にデビユを切つた」(福士幸次郎)からである。中央詩壇への一大勇躍であった。島村暮鳥を名乗るのもこの『自然と印象』誌上からである。命名者は人見東名であった。

同人参加を経てさらに中央詩への活発な投稿・寄稿等が行なわれることになる。これも④段階の特徴である。④では地元紙(『仙台日日新聞』ほか)への寄稿等も引き続き精力的に行なわれる。そして、上記パンフレット詩集の刊行(同438月)を経て、未刊の『初稿本』(明治453月)刊行の企図となる。以上が「習作期」とされる前期から後期までの詩歴と経歴である。

序にその後を第2詩集『聖三稜玻璃』まで辿っておくと、⑥で刊行予定であった『初稿本』が、出版社の災禍によって未完となったまま、⑦(平町移住)となり、同地にて約1年を待って第1詩集『三人の処女』(『刊行本』)の刊行(大正25月)を迎えることになる。

その後、同地⑦にて第2詩集を迎えるまでの詩的活動を概観すると、注目されるのが雑誌『風景』の発刊である。同誌は、暮鳥が⑦にて興した「新詩研究社」(大正211月)の機関誌である。当初は月刊誌として企画されたが、大正311月の終刊までに刊行したのは計6冊である。翌年には暮鳥をメンバーの一員とする「人魚詩社」の設立(同36月)を見る。同人の顔触れは、暮鳥ほか萩原朔太郎、室生犀星の三人である。終刊となった『風景』後の暮鳥の主要な発表誌となる。ただし、機関誌『卓上噴水』(大正437日創刊)は、3号を出して休止(実質上の終刊)となってしまう。その間わずかに3か月であった。ただし詩社は存続していてその年の12月に同詩社より『聖三稜玻璃』が刊行される。

詩誌として重要なのは、この2冊に加えて北原白秋が主催した『地上巡礼』(大正39月~43月)である。全6冊の内、暮鳥の寄稿は2号にはじまり6冊目の最終号まで精力的に続けられる。以上の三雑誌に加え、第2詩集で録られた中核的な雑誌は『詩歌』である。第1詩集の大正25月以降、第2詩集刊行の前月となる同411月までの間、ほぼ毎月にわたって寄稿を重ねる。その数は61篇にものぼる。ただし第2集に録られた数は、7編と少ない。明治44年(1911)に歌人の前田有暮によって創刊された『詩歌』は、大正710月までに92冊を数え、休刊の後、昭和3年に復刊される。

経歴に追記しておけば、第1詩集『三人の処女』刊行の大正25月に結婚し、翌年6月には長女の出生をみている。



4 二つの『三人の処女』の異同~急進的な詩作活動~

『初稿本』は、未刊のまま遺族のもとにとどまり、全2巻からなる弥生書房版全集(1961年)に初めて選択的に収録されたものである。全体が一括収録されたのは全4巻からなる筑摩書房版全集(1989年)である。割り付けまで終えた編集済みの完全原稿で入校しておきながら、予期せぬ災禍であったといえ、一度は刊行しようとしながらも、しかも実質的な処女詩集となるはずのものを、なぜか自らの手によってそのまま筐底に眠らせてしまう。同じ未刊詩篇でも、その死によって没後刊行となってしまった『黒鳥集』を思うと(やはり編集済みとなって後は刊行を待つだけの状態になっていたので、その点でも似ているのだが)、両者の扱いの違いには、暮鳥論を切り拓くための一つの視点の胚胎さえ見こまれなくもない(上述)。そのためにも初稿本『三人の処女』から刊行本『三人の処女』(第1詩集)そして『聖三稜破璃』(第2詩集)までの展開を幾許かの作品分析を試みながら見とおうしてみたい。暮鳥にとって詩とはなんであったのか――求める答えである。


最初の「否定」 『初稿本』と『刊行本』との違いを見ると、一つはっきりしている点がある。『三人の処女』という同一の詩集名で、比較的近い時期の詩作活動ながらも、両者は重複作品を抱えていない点である。収録作品の作詩年代が截然と区切られ、年代的重複を意識的に回避しているからである。すなわち『刊行本』は、1点の例外を除いて(それも、例外が詩集名を詩題(「三人の処女」)としているため)、『初稿本』以降で編まれていたのである。『初稿本』に対する否定的態度の貫徹だった。未刊もその結果だったことになる。

両者間の開きは、僅かに1年である。詩人のなかに渦巻く詩学的変化の激しさをあらためて痛感させられる。この場合、暮鳥の多作は、「変化」を促し推し進める物理的要因をなしていたにちがいない。総量が詩的達成感を押し上げるのである。暮鳥のプラグマティズムである。問題となるのは、かくして倍加される変化(詩学的変化)の在り方である。

顧みられなかったのは、すなわち否定的態度で対峙されることになったのは、上掲諸篇のような、口語的実践への試行が露わにされた、韻律を顧みないような詩篇群である。量的には『初稿本』全62編中の約4割弱に当たっている。内訳は一様でないが、なかには文語調に口語調を1行忍ばせただけのものもある。それでも主調は口語調にある。口語的な計らいの上に算段されたものだからである。いずれも自由詩社への参加が将来したものである。同詩社が標榜するスタイルとは、「定型から開放された自由な表現詩形、(略)思想や感情の流れや、官能や感覚の息吹の奏でる調べをそのまま表現できる詩形」(人見東名)の如くであった。暮鳥の性急さは、同詩社の詩学を先鋭化する方向にのめり込ませ、本家本元を余所目に独自の詩境を切り拓く一歩手前まで達していた。それをも惜しげもなく捨てたのである。最初の「否定」だった。


『刊行本』瞥見 はたして詩学的な理由だけで放棄できたのか、諸篇を味読するたびに浮かび上がる疑問であるが、それは措くとしても、放棄によって文語調の韻律を基調とした、もっぱら内向きの体裁を保った詩集の編集に漕ぎ着ける(ただし、後述するようにいくつかは核分裂を誘発している)。『刊行本』の成立である。以下にそのなかから幾編かを掲げてみよう。

獨 唱

かはたれの
そらの眺望(ながめ)
わがこしかたの
さみしさよ。

そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。
(『詩歌』第二巻第十二号、大正元年121日)

 この詩篇では、自由詩社の「定型から開放された自由な表現詩形」から定型に回帰してしまう。

とかげ
F様に)

走る蜥蜴(とかげ)
紫と金……夢のILLUSION.

廢頽の園のなやみに
沁みてゆく、
さみしき入日。
(よきことを、おとづれたまへ)
絲の如く、
樹々の梢をわたる風、
年頃の心ともつれて、
さながらに吐息の如し。
(『新潮』第十八巻第五号、大正元年111日)
 
異国情緒を湛えたハイカラ趣味は、暮鳥をも虜にする。言葉の魅力はときに魔力となる。詩の深層を表層で実現してしまうからである。

人 生

榲桲(まるめろ)は霊的に微温し、
日毎夜毎の、うす(きいろ)なる吐息は
にほひゆく死の陰影(かげ)
曖昧なる幻惑のびおろん。

おお、友よ、
わがあを白きふところ手は
夢の如く、季節を(つか)む。

その風景のかなしさに……
(『シャルル』第三号、大正221日)

1行冒頭の「榲桲」(まるめろ)は、暮鳥詩にしばしば登場する詩語(果実)であるが、後年の第2集のなかのそれと比べると、香りだけではなく色合いさえ違ってしまう。その最終4行だけを示せば(第2詩集)、「堕胎陰影/騒擾ゆき/放火まるめろ/誘拐かすてえら」の如くで、ほとんど別物である。

 なにゆえに『刊行本』では、哀愁を籠めた眈美な抒情詩をほぼ全編に亘って書き連ねることになったのか。かつて所属していた自由詩社の「詩形」に対する不足感があり、その超克への強い希求によるものであったのだろうか。背景には北原白秋の南蛮異国趣味や木下杢太郎の「緑金暮春調」(明治41年)があった。なるほど白秋等の創り上げる言葉の世界は、その韻律を最も高い日本語表現に定着させて詩的目眩を目覚ましく実現していた。その高さに比べれば、口語調による詩行化は、第1詩集刊行を前にした暮鳥にとって一段劣った表現スタイルにしか見えなくなってしまっていたにちがいない。白秋はほとんど同時代の「古典」であった。


「否定」の背景 しかし問題なのは、かりにそうであったとしても、それ以上に『初稿本』の世界(口語世界)は途絶えてしまっているのである。まるでそこには、第1詩集の刊行によって過去をすべて打ち消してしまいたい欲求が潜んでいたかのようである。『黒鳥集』にも録られていないのは、全否定に近いものであったことを暗示している。大きく開かれようとしている可能性に目を瞑ってまでして。いかなる理由からなのか。それが暮鳥の内面であったのか。

 後年、一時期の熱い詩想仲間(人魚詩社)であった、朔太郎や犀星に対して(とくに朔太郎に対して)人間的な距離を置くに至る。都会の机上だけの連中と言って、生活の塗炭を嘗めたことのない、親の仕送りに甘んじている芸実至上主義に嫌気が差したのである。おそらく先行して同じ感情を自由詩社の同人たちにも抱いていたにちがいない。それは詩想として心を通わせているうちは表に出ることがなかった。ひとたび詩学的立場を異にした時、「否定」は、勢い人格的範囲に及んでしまいかねない。自由詩社のメンバー(早稲田大学生中心)は、言ってみればエリート集団である。

後年の文章ながら、そのメンバーの一人であった相馬御風について、彼との違いをこう綴らなければいられないのであった(部分)。

自分が赫土色の軍服をぬいで戦地(日露戦争・引用注)から帰つて来た時、氏はもう学校(早稲田大学・同注)を出て早稲田文学社に入つてゐた。そして氏はやがて結婚し父となり教授となられた。もう歌や詩はすつかりやめて評論に翻訳に創作に――氏が当時の思潮自然主義の先駆としての花々しき活動は日本をして舌を棬かせ且つ酔はせた。それに引きかへて自分は荒漠たる東北の寂しき町々をそれからそれへと今猶さ迷ふ小さきキリストである。
氏は全面を展望した。自分は一局部を未知した。
(「悲壮なる幻滅者――相馬御風氏と自分と――」(『新理想主義』第62号、第63号、大正52月、3月))

 小説とは表出方法が異なる詩にとって必要なのは、作品であって人生ではないかもしれない。しかし後述するように山村暮鳥論にとっては、形式的には詩篇や関連の散文(書簡を含む)が第一義的資料的地位を占めながらも、詩論資料としての経歴(人生)は、作品のためだけの説明資料では終わらない。第二義的なものでも次位に就かされるものでもなく、むしろ詩人論としては逆である。何のための詩であるのか、詩学を飛び超えて一気に御詩の本質論を直撃してしまうからである。暮鳥論の特徴である。

ただし詩人論への現れ方としては、表現(作品)に現れるというよりは、表現を支える詩想に現れる形をとる。したがって個別の詩篇に顕れるというより、全体に顕れる。あるいは全体を決定する上にたち現れる。第2詩集から第3詩集への極端な変化(全体的変化)は、それが自覚を伴って現れた最大の詩想(思想)的事象であった。まさに「詩歴」は詩学に先行するものであった。暮鳥論のエッセンスである。

* この点を和田義昭は朔太郎の言を引きながら暮鳥の気持ちに立って次のように記す。「さて、『卓上噴水』第二集にある朔太郎の消息『利根川より』を見ると『私たちは何時でも貴族である。晩餐をするときにさへも卓上に香水の噴水を仕かける羅馬貴族の風流を学ぶものである。私どもはぜいたくである。私たちの手は白くして滑らかである。私たちは労働したことがないのである。そしてそれを誇りとしている』と書いている。(略)そう云うムードには百姓の子として生い立つた暮鳥としては永くひたつていられる筈がなく、やがて離れねばならないことになるのであるが」(和田1968141頁)と。


 移行過程と「否定」 そうは言っても形の上では詩論一般同様に作品から切りこんでいかなければならない。ひとまず第2詩集までの二つの「否定」を辿る。最初は『初稿本』から第1詩集(『刊行本』)にかけての「否定」(ただし再述・再確認)。すなわち口語自由詩の否定。『初稿本』を再度読み返すと、すでに『初稿本』の中で「否定」が事前予告されていたことに気づかされる。入稿時の明治453月下旬に近い詩篇を確かめることでそれが知られる。最新作(正確には最新の雑誌掲載作)に「春」がある。
 
(『初稿本』)
   春

  ゆるくながれる雪解(ゆきど)けの
木目(もくめ)のやうな水のゆめ、
ひそかに芽ぐむなつかしさは
恋をするものに、
夢と影とのかたらひよ、
みあかぬ色の浅黄(あさぎ)
(『詩歌』第二巻四号、明治4541日)

 『初稿本』の冒頭詩篇である。語調は口語調を離れている。かといって文語調に終始沿わせようとしているわけでもない。意図が那辺にあるか判然としないほどに中途半端な感じが拭いきれない。それでも冒頭詩である。なんらかの意志表示が働いていたはずである。後続詩篇との繋がり具合からすれば、序詩あるいはエピグラフではなかったかと思われなくもない。そうだとすれば、編集上の効果から置かれたことになる。当然、編集の意図を満たすはずの作品だったことになる。

それにしても焦点の定まらない中途半端な感じはなんなのだろうか。未熟のためか。つまり習作なのか。それとも逆に詩的才能が過ぎているためなのか。たとえば感受性の飛躍が生み出した、第2詩集(『聖三稜玻璃』)に収斂していくようなものとして。「否定」の観点からはいまだ中途半端な感は拭い去れないが、反口語調の5行目以下を主調とするなら「否定」を表明した詩篇と捉えられることになる。次も同じ年月日発行の別の雑誌に掲載されたものである。
 
(『初稿本』)
黄い月

おぼろ夜の
水のぬるみに(こそぐ)られて
ころろと呟く蛙、
おお、忘れてゐた悲哀の
その声のわかさよ。

祭礼(まつり)のやうな性の遠方(をちかた)
季節は夢のあたらしい蛙の声の合唱(コオラス)
ふけてゆく焔の太鼓。

異郷ならでは(きいろ)い月、
それもまた心の色か。
(『秀才文壇』第十一号、明治4541日)

最終行の「それもまた心の色か。」で語調を口語に撚り戻し気味であるが、全体としてはさらに文語調に近寄った一篇である。次は入稿日前月発行の諸誌に掲載された、もともと独立した作品であったものを、『初稿本』を編む際に一つの詩篇に再編したものである。各聯の表題に諸出詩を括弧で掲げる。

(『初稿本』)
印 象

Ⅰ 途上所見(『新潮』第十六巻第二号、明治4521日)
(原題は「印象」、その第1連)
汽車みちを
ゆく年増(としま)
爪先の冬はさみしや。
白足袋に(きいろ)い泥が
ついてます。

   Ⅱ 朝(『早稲田文学』第七十五号、明治4521日)

日本橋。
朝の電車のガラス戸に
うす紫の靄見れば
そぞろつめたい東京の
女の肌をおもひだす。
冬はことさら大理石(マアブル)
上をすあしの意気もなし。
をわいの船が通ります。

   Ⅲ 鶏頭(『劇と詩』第十七号、明治4521日)

踏切の
旗ふり娘、恥かしや。
けふもけふとて白い旗
だして通してやつた汽車、
いたづら好な機関手の
投げた小さい石炭に
赤い鶏頭が折れました。

   Ⅳ 反抗(『劇と詩』第十七号、明治4521日)

ちりん、りん、りん鳴る(ベル)
鳴れば鳴るほど反抗に
意気を示した若いもの。
あはや、帽子よ、ゆきずりの
幌ゆゑ泥に落されて、
秋の光りをふと乱す。
 
   Ⅴ とんぼ(『新潮』第十六巻第二号、明治4521日)
(原題は「印象」、その第2連)
黒い服着て辻に立つ、
巡査する身のさみしさは
女み返るその顔を
ちらと蜻蛉(とんぼ)に覗かれた。

 かく再編されたのは、一方では放恣な口語調への否定的表示のためであったとしても、話し言葉的な語り口で継がれた「Ⅰ」~「Ⅲ」から叙述体の「Ⅳ」「Ⅴ」に転ずる韻律の移し替えには、同じ詩作態度でも一歩進んで北原白秋への接近を強く押し出したものである。したがって、気分はすでに一部「否定」の先を行っていたことを物語っている。

 
正調の確立 かくして、高まった気分によって詩集1冊分(『刊行本』)を1年の内に仕上げる。『初稿本』のそれには浮ついたところがあった。哀愁感や詠嘆調によって野放図になりがちな言葉を内側に引き戻したのである。一端たがをはずすと自由気儘に破格的になりかねない発語の抑制であった。専らの課題は、口語調との距離の取り方だった。課題は実作にそのまま転換される。あとは言葉を俟つだけとる。苦もなく果たされる。呼び戻すだけで済むからだった。

かくして口語調との距離感のなかに佇む自己納得的な姿が、第1詩集発刊を自己に許しかつ促す。相応に模倣の域を脱した表現の自己実現化も自足感を深める。気分は整いかつ静まっている。第1詩集の冒頭詩篇(「獨唱」)もその上で読み返すと、また違った味わいを漂わせている(再掲)。

獨 唱

かはたれの
そらの眺望(ながめ)
わがこしかたの
さみしさよ。

そのそらの
わたり鳥、
世をひろびろと
いづこともなし。
(『詩歌』第二巻十二号、大正元年121日)

 かつての言語的超躍に果敢であった姿はどこにもない。かわりにあるのは静謐である。祈りの姿を精神性に忍ばせた詩句が、教会の伝道師である詩人の社会関係を自己実存に引き入れて、かつ来歴(「こしかた」)に対しても、「さみすさよ」と詠じながらも悲嘆に暮れるのではなく、逆に悠揚迫らざる応じ方である。たとえば『刊行本』に散見されるひらがな詩の一篇は、そうした自己同化の全きを詩行に行きわたらせているかのようである。ここでは「沼」を掲げておこう。

   沼

やまのうへにふるきぬまあり、
ぬまはいのれるひとのすがた、
そのみづのしづかなる
そのみづにうつれるそらの
くもは、かなしや、
みづとりのそよふくかぜにおどろき、
ほと、しづみぬるみづのそこ、
そらのくもこそゆらめける。
あはれ、いりひのかがやかに
みづとりは
かく、うきつしづみつ、
こころのごときぬまなれば
さみしきはなもにほふなれ。

やまのうへにふるきぬまあり
そのみづのまぼろし、
ただ、ひとつなるみづとり。
(『詩歌』第二巻十二号、大正元年121日)
 
 ひらがなの連なりが、心模様をモノフォニックに音形化している。「ふるきぬま」は、感傷を湛えず淡々と「そら」を映して、役目の範囲を超えない。白秋の影も伸びていない。もともと暮鳥にとって白秋風の眈美は流行り病に近い一過性のものでしかなかった。言葉の魔力に取りつかれたのであって、それは詩人にとって当たり前であっでもそれ以上ではなかった。言葉に対して生来暮鳥が備えていた人一倍の敏感さを刺激する上に有効だけだった。言葉と自己との関係にたち返れば、所詮、上辺を飾る化粧のようなものでしかなかった。飾る愉しさだけだった。終ってしまえばそれまでの愉しさも虚しさに様変わりしてしまう。次の化粧は要らない。


次の「否定」への階梯 それでも、影響関係を濃密にとどめながら一冊を編む。形が必要だったのである。詩篇と詩集は違う。その違いの前に以下のような詩句にも目を瞑ることができる。上製された詩集の表紙は、内部矛盾を容易に閉じ込めるのである。否、矛盾ではなくするのである。これは化粧とは違うものである。上製された詩巻の本としての力である。

SILHOUETTES

  わが靈の如き、緑玉よ
はかなき生命(いのち)のかがやきは
鳴かで小鳥の飛ぶが如く、
或は夢に、ぬれて肌の景色となる。
さてこそ夜の序曲(プレリユド)……

雪か懺悔の、枯れにし禾堆(つか)の上、
わすれて惱む愛慾のめづらしさに
忽ち涙の消去るなれど
時ならず、
胸なる渦の緑玉よ、
その安かさのいたづらなる。

季節は金と赤とに入り、
光は物のかげを(はらば)ふ。

(「2」「3」省略)
(『劇と詩』第二十一号、明治4561日)
 
 冒頭詩と読み比べれば、同じ「鳥」(「小鳥」)でも、それが言葉の上を滑るだけの響きなのか、心に沁み入る調べなのか一目瞭然である。故に「靈」「生命」「懺悔」も「金と赤とに入」る、季節に流れる「夜の序曲(プレリユド)」の歌詞の一部でしかない。拾おうとすればいくらでも拾える。それが第1詩集である。本人にも分かっている。次第に頁を埋める詩篇の中身が気にかかってくる。文語的哀感や甘美・眈美への空々しい思いが頭をもたげてきたのである。次の「否定」である。その顕在化である。時間的には、明治から大正に変わるあたりである。

形としては、まず「心」の希求として表出しはじめる。上掲「獨唱」や「沼」は、その詩行化を深めた作例である。次の詩篇は、さらにその直前の詩的心境を窺わせる、見こんだ詩行化への一過程を実践している例である。

   秋の日の事實

Ⅰ 噴 水

――譬喩(たとへ)は、悲し。
秋の日の、
噴水の、
やすらかに眠れる。
こしかたに
搖げるは
ひめにし「(さち)」か、
いたまし。

玉の如く、
なやむ心の
さてこそ、
脆き、その夢。
(『峡湾』、大正元年101日)
Ⅱ 所 現

その眼にとめた
空は(あまり)りに悲しかろ、
そして()さかろ、
赤とんぼ。

秋の入日の
うつくしや、心の如し。
(同上)
Ⅲ 屋根の草

青い心にかがやくものは屋根の草、
いとしや「明日(あした)」を繰返し
又雨のひそひそと……
屋根の草は(きいろ)い花をつけて濡れ、
わが神經は白金(プラチナ)の様に眠る。
女よ、女よ。愛はおぼれて暗がりを蛍の様に
ぽうと飛ぶ。
(同上)
Ⅳ 不可解

ながれ行く――
雲はかなしや――
音もなし……
秋の日の
その雲――
わが愛の如き
もろさに――
ふく風の、うつくし……
(同上)

 大正元年101日発行『峡湾』誌上に掲載されたものである。初出形か再編形か承知していないが、ここにある詩行化への企ては、眈美に揺らいでしまいがちな言葉の振幅を整合し直し、それを逐一調べに問いただしているのである。短行形の採用と滑らか詩行連結への抗い、全休符的な塞ぎ方による語と語の屹立(「Ⅰ」)、童謡調を俳句的切れ味でまとめあげた二律感(「Ⅱ」)、甘美な文語調に対する裏切りを平然と敢行して憚らない末尾の俗語調(「Ⅲ」)、以上を記号(ダッシュ、点)として表記し直した、しかしどこか唐突な書き替えの叙述法(「Ⅳ」)――依然手探り感は拭い切れていないが、全体としての詩的凝縮、結果としての反眈美・甘美の態度表明には、一篇を通じて手応えを得ている感じである。ここにあるのは言葉遣いへの再認識である。同時に再編成ないし再組成への意欲である。この詩は詩集の巻末詩として録られたものである。意図的な配置だったのである。

一方、詩集(『刊行本』)には、刊行の大正25月直前の23月の間に雑誌掲載された幾編かが収録されている。編集上では詩集の前半に置かれている。後続詩集にも認められる、直近作を冒頭に据えた特徴的な割振りであるが、実はこのなかに「否定」されていたはずのもの(口語調)が再出することになる。

作詩年月の時間的倒置は、ある意味詩集への自己否定を画策した編集行為である。この場面では「矛盾」に対して能動的である。すでに第2詩集が具体的に企図されていたわけではないが、詩的営為の連続性には、現状是認に対する不寛容が恒常的に渦巻いていたかのようである。多作が単なる反復繰り返しではなく、そのたびの模索であったことの証である。

いずれにしても文語調を否定するのにかつての「否定」を以ってしたのである。不定の呼び戻しである。聯の立て方も『初稿本』に近い。イニシャルによる詩行展開にも先例がある。やはり『初稿本』の中である。「病床のS――のためとして」(『秋田魁新報』第6595号、明治4311日)がそれである。語調も近い。口語主体である。以下は「Gよ」と呼びかけた『刊行本』のイニシャル詩である。

勤行夜牀章

Gよ、自鳴鐘(とけい)は六を打つた。
その悲しい柔かな光で洋燈(ランプ)
蒼褪めた私に嫉妬を描いた。

ながれる光が私のまぶたに溢れ、
私の好む沈黙が渦を巻くと、
不思議な花は萎む。
Gよ、(真實は走る季節より迅速(すみやか)そして
憎らしいものだ)
けれどお前の(はたけ)に蒔いた種子(たね)
私は悔んで、それに
涙をかけ様とは思はない。
おお、愛の種子、悲哀の種子、
光を永遠な土にかくれて呪ふ種子、

それは眞晝であった。
一すぢの髪毛の夢で、
私がそつと生命(いのち)をつないだのを、
知つてるかい。眞晝であつた。
床の上が青空になり、
玉の様な靈魂の肌はすすり泣きして
眠る情緒の瞳を刺通した、
あの邪悪な銀の投槍で。

(以下3聯文省略)
(『新潮』第十八巻第三号、大正231日)
 
咄嗟の変身振りには途惑うばかりである。手もとに留めておいた旧作かと疑ってしまうほどである。しかし、同年2月に掲載された作品に同様の語調で作られた作品があることを知って、旧作ばかりとは言えないことを知る。

   BEAUTY

感電した空の沈黙、
ものの匂ひの蝙蝠がちらほら、
やがて形作る夜の性、
愛は孤獨のさみしさに
栂指を、そつと冷たい(くちびる)にした。
まつたく忘れてゐたその希望の
どこかで遠く、
三味を離れた涙のうめき、

と、
わが(たましい)眼盲(めし)ひ、
ずるずると
落日の光にすがつて
ひきづられた。
(『詩歌』第三巻第二号、大正221日)

 ここだけ見ると、文語調詠嘆に耽溺していたこと自体が疑われかねないほどである。白秋に惑溺する姿を思い浮かべるのも困難である。暮鳥の創作力は、まさしく日々の更新を条件としている。変わらない事態を容れられずにいる。なにかが暮鳥を牽引している。上掲2篇の内、後者は、すでに第2詩集『聖三稜玻璃』の世界に足を踏み入れている。作域に忍びこんでいるのは、ほとんどシュールレアリスムの感性である。急進振りは当の作者自身をも置いてきぼりにしかねないほどである。前者にも「床の上が青空になり、玉の様な靈魂の肌はすすり泣きして/眠る情緒の瞳を刺通した、/あの邪悪な銀の投槍で。」の部分がある。近しい発想である。冒頭、小じんまりまとまってしまったの『刊行本』への評価は、いかにも棒読みで短慮の披歴であったことになる。どこか思いこみが先行していたとしても訂正が必要である。

かくして次のステップに足がかかる。一冊の詩集が生み出される。日本近代詩にとってまさに奇跡的な詩行を満載した『聖三稜玻璃』である。二つの「否定」が生み出した、おそらく詩人自身も予期していなかった「卒倒」的な成果だったにちがいない。しかしそこにもあらたな「否定」が待ち構えている。ただし今回は詩巻の中ではなく外でだった。日本近代詩は、一人の詩人の運命を詩歴ではなく経歴に立ち返らせずにはいない。冒頭「受身形」とした一端である。しかも予想もつかない詩想と同体化してしまうのである。それを含めて「否定」(二つの「否定」)の上の詩集と言えるだろう。


 
5 先取りされた言語世界~『聖三稜玻璃』の世界~

 詩篇の成立 第2詩集『聖三稜玻璃』は、福島県平町講義所時代の一冊である。刊行年月日は大正41210日。今から数えると丁度100年前となる。斬新さは、それによる未了状態を相応に抱えこまなければならないとしても、今に至るも輝きを失っていない。当時の詩の状況を踏まえると、まさに一つの驚きである。それだけに早すぎた詩集の宿命を背負わなければならなくなる。敬遠気味の酷評のみが詩評に渦巻き、四面楚歌の状況を生んで、やがて思ってもみなかった「事件」と重なって、暮鳥を「卒倒」させることになる。否、本人をというよりは、本人が生きるその宿命をである。

 詩篇の構成は、第1詩集同様にここでも最新作を前半に置いて中ほどに旧作、後半に近作を置く。掲載作の最新は、大正4年(1915年)61日発行の『ARS』第一巻第三号、最も古い作は、大正351日発行の『風景』創刊号である。したがって約1年の間に発表されたものから編まれていることが分かる。

ARS』は北原白秋が創刊(大正411日)したものであり、『風景』は山村暮鳥主宰の「新詩研究社」(大正211月結成)の機関誌で、大正35月に創刊したものである。ほかに『卓上噴水』(6)『地上巡礼』(9)『詩歌』(8)『新潮』(1)『三光』(1)『新評論』(2)がある(括弧内は掲載詩篇の点数)。なお『ARS』は2篇、『風景』は4編、掲載誌未詳が2篇で、さらに「貼紙」詩篇として刊行時に貼付状態で追加された1篇がある。総数36篇(貼紙詩を除けば35篇)である。

『卓上噴水』は、人魚詩社の機関誌で、同詩社は萩原朔太郎・室生犀星・山村暮鳥三人による詩結社である。既述したとおり3冊刊行して終刊。続刊は果たされなかった。『地上巡礼』は、北原白秋主宰の巡礼詩社の機関誌(大正391日~43月)で全6冊を刊行。暮鳥創刊の『風景』は、大正311月終刊までに全6冊を刊行。雑誌から見る限り、白秋との関係が依然強いことが分かる。その一方で口語自由詩系の雑誌(『劇と詩』及びその後続誌である『創造』)からの収録が截たれていることが分かる。
 
 * 北川透は当時の状況に鑑み、暮鳥の詩業の意義を次のように記す。「彼はあえてその危地(「未成の隠喩」のこと、引用注)に身をさらしながら、それまで情緒や詠嘆に滲透された、朔太郎の言う〈調子本位〉の近代詩の文語体を解体する、言語革命の先陣を切ったのである。そして、暮鳥の試みと踵を接するようにして、萩原朔太郎や室生犀星がこの同じ場所に登場してくることになる」(北村199552頁)と。


空白期間の詩篇 ところで各詩篇の初出を辿って行くと、『刊行本』である第1詩集『三人の処女』(大正25月)の刊行から第2詩集『聖三稜玻璃』収載詩篇の初出年月である大正3年4月の1年間が空白となる。この間の動きを再確認すると、大正25月結婚、同年9月には前年の大正元年9月に転任した福島県平町講義所から同町平準教会に異動。詩活動としてはその年の11月に詩誌『風景』の母体となる「新詩研究社」の創立などが特記事項として挙げられる。これまでの連続的な詩作活動から見ると1年間の空白はいかにも長い。しかし休止していたわけではない。録られなかっただけである。

この空白(収録空白)の間の詩篇の様子は、『黒鳥集』(昭和351月、昭森社)に知ることができる。同詩集は生前に編集が完了していて、大正13年秋には出版予定(イデア書房)であったものが、詩人の死没(大正12128日)と重なって長く未完状態に止まっていたものである。

試しに空白期間からの収録数を、大正24月を起点にして数えると、『黒鳥集』録られたれのは29篇である。寄稿先も『詩歌』『劇と詩』『秀才文壇』『早稲田文学』『創作』『文章世界』と従来を踏襲した中央詩壇(文壇)である。寄稿状況を見る限り引き続き精力的である。

その間に別段スランプがあったわけではないという、詩集間の連続性を念頭に置いて詩境を辿り直すと(年代順)、第1詩集収録作品(大正23月が最後)に後続する詩篇(大正24月)は、引き続き文語調の詠嘆を避けた口語に拠ったものから始められている。26連からなるやや長い作品(「りたにい(2)」)である。冒頭部だけ掲げておく(「/」は改行を示す)。

(『黒鳥集』)
空よ。聖霊のやうな力を……/なにか動揺してゐる/草のはつぱの/その陰影(かげ)のあらし/わたしの(くち)はひだまりの/やはらかさにさへ青まない

その後に「小曲」と題した小品が2篇(ともに単聯)が続く。韻律を異にした文語調と口語調で書き分けられている。さらに童謡調の1篇(「春」)が後続する。イニシャル(「Fさん」)を抱え込んだ既作品に例のあるものである。最初の2聯だけを掲げておく。

(『黒鳥集』)
Fさん、お月様はさみしかろ/Fさん、お前もさみしかろ(改聯)Fさん/わたしの朝餐(あさげ)はあつさり/狐いろのパンと/一杯の白葡萄酒と/のうへお前の瞳をみるならば……

翌月結婚する相手は土田富士である。「Fさん」だろうか。そうだとすれば、童謡調を隠れ蓑した恋歌である。直接的な情感の吐露を避けている点でも第1集からの距離が感得される内容である。次も同様である。言葉の重みを基調とした詩行である。それが白秋調からの自己回帰ともなって、振り返るよりは前途に超然とした姿を彷彿させることになる。

(『黒鳥集』)

あまりに大なる悲しみなれば
みよ蒼穹(そら)のやすらかなり
眠れるがごときゆふべよ
麦の穂並にくれてゆく
ひるのなやみのやはらかなる
沼にことりは水を浴み
われらはまぶたのそこをさまよふ

ねがはくは、むしろ暴風(あらし)
ゆゑわかねどもゆめとこそ
いま甲斐なくもめざめけるかな
(『詩歌』第三巻第六号、大正261日)

結婚直後の作品である。布教活動にも充実した日々が続く毎日である。精神性に溢れた作品である。最終行に「いま甲斐なくもめざめけるかな」と綴る。何に眼覚めたのか。聖職者としてのあらたな想いに発するものであるにしても、あたかも詩的大転換(「暴風」)の襲来を予知しているかのような一行である。予知を現実のもとするかのように、以後、『聖三稜玻璃』の収録対象となった詩篇の前夜ともいうべき、次の1年間(大正35月までの1年間)に繋がっていく。

* 人生上の充足感も口語調を後押しするが、平明さには後・晩年と一部気息を通わせる部分がある。留意すべき点かもしれない。


断絶の詩篇 そうだとすれば、それ以前、1年間を通じて第2詩集に録られなかったのはいかなる理由からか。総じて録り難い、不本意な出来だったためなのか。見較べてみたい。最初に短行単聯の詩篇同士を比べる。詩集名を冠しておく。

(『黒鳥集』)
いのり

としよりのいのりは(しろがね)の滴り
あかつきの愛のさみしさ、罪のひかり
そのいたみより
たましひのよもすがらなる
かなしき悔ぞはなとにほふ
『詩歌』第三巻第六号、大正261

(『聖三稜玻璃』)
晝(『詩歌』第五巻第二号、大正421

としよりのゐねむり
ゐねむりは
ぎんのはりをのむ
たまのりむすめ
ふゆのひのみもだえ
そのはなさきに
ぶらさがりたるあをぞら

 比較事例としたのは都合よく「としより」が重なるためである。ともに第一行目である。しかし一方(前者「いのり」)は録られない。「いのり」の場合は、祈りに始まり祈りに終わっている。事件は生起しない。祈りのままに推移し終息を見るだけである。旋律としてもモノフォニーすなわち単旋律である。

その点、後者「晝」では、「としより」と「むすめ」とのポリフォニーになっている。複声化である。かといって響きを高めるためではない。逆である。響かせないのである。一方が録られ一方が録られなかった理由である。正調(文語調)とは相容れない不協和音を響かせているからである。しかもそれを複声が果しているのである。暮鳥が求めていたものである。否、見出した詩法である。

いまや言葉は、本来の重みとしては二次的な扱いを受けなければならない。繰り下げである。情感を離れることは厭わないどころか条件にさえしようとしている。もちろん、現代詩的には、「いのり」の一人称的誠実さが手放しで容認されるわけではない。即物的な精神もまた人間的動機であり、むしろ詩的表出への意欲としても脱近代的である。しかし、100年前である。暮鳥の神経の糸は那辺に張り巡らされていたのか。ちなみに第1詩集『三人の処女』に「としより」が詠われた次の作品がある。参考までに掲げておく。

 (刊行本『三人の処女』)
   か ほ

としよりのかほをみるは
ふゆのひのけはしきそらをみるがごとし。
ひたひなるつめのにほひ、
しの、ものすごきては
ひややかにかげをつくる、
いくすぢの、こはたましひの
うつくしきなげきのしわ、
そのしたに
ひかるめありて、
つくづくともののゆくすゑ、
はた、こしかたをながめつ。
よにおそろしきこともしらで、
ねむるこころのいとしさに
ともすればまぶたをぬらす。
       (『北国詩』第一巻第一号(創刊号)、大正221日)
 
詩作の意義を言葉の深化だけではなく心の奥底の詩行化に見出している。あるいはその両者の融合に発語している。詩の底となり基盤となる詩想である。詩語や詩句はそのための、すなわち心を深く掘り起こすための用具として機能している。本来の機能である。三者を比べれば、いうまでもなく「かほ」は、「いのり」に内的に繋がっていく詩篇である。それが「晝」で連続が截たれるのである。次のひらがな詩は「大宣辭」なる詩題だが、まさに断絶を公言するかのような内容である。

(『聖三稜玻璃』)
大宣辭

かみげはりがね
ぷらちなのてをあはせ
ぷらちなのてをばはなれつ
うちけぶるまきたばこ。
たくじやうきんぎよのめより
をんなのへそをめがけて
ふきいづるふんすゐ
ひとこそしらね
てんにしてひかるはなさき
きんぎよのめ
あかきこつぷををどらしめ。
(『卓上噴水』第一集、大正437日)

 発表誌は人魚詩社機関誌の創刊号である。同人の萩原朔太郎や室生犀星に対抗して存在感を示そうとした、あるいは一歩先を行く自負心を誇示しようとした作品である。意気込みが作らせた感じでさえある。意味性の破綻をあたらしいリズムとする言葉と言葉が、それを第一条件として詩行を整えていく。なかには雑誌名との掛け言葉になっている箇所もある。「たくじやうきんぎよのめ」の「卓上」である。まさしく意気込みの外形化である。

ここにあるのは、祈り(「てをあわせ」)と退廃(「うちけぶるまきたばこ」)、嗜好(「たくじようきんぎよ」)と淫蕩(「をんなのへそ)、宣辭(「ひとこそしらね」)と叛意(「あかきこつぷををどらしめ」)である。対峙・対立は押しとどまることを知らない。そのために部位(「へそ」)と化した女の尊厳が躊躇いもなく情欲に晒されてしまう。ほかにはこんな詩行もある。「ぶらさがった女のあし/茶褐で雪の性」(「妄語」5聯)。性としての女は何故に部位(「ぶらさがったあし」)にまで貶められなければならなかったのか。女だけではない。我が身に対しても即物感覚で臨むのである。


模索と昇華 いまや詩人に例外はない。なによりも自身を保全する言葉に対して甘言を寄せ付けない。あるのは、すべての意味性をかつての帰属関係から断ち切る、見方によっては痴呆感へのたち還りともいうべき言語感覚の痴態化でありその露呈化である。ただし然るべく段階を踏む。一気に達成できたわけではない。次は、模索的な移行段階の詩篇である。

(『聖三稜玻璃』)
曼荼羅

このみ
きにうれ

ひねもす
へびにねらはる

このみ
きんきらり。

いのちのき
かなし。
(『地上巡礼』第一巻第二号、大正3101日)

 ここでは一字一句が字句の膠着状態を強め、改行に臨んで独自のアクセントを生んでいる。「み」から「き」、「き」から「か」への切り替えに、同じ高さの発音が必要となるからである。ひらがな詩への語感的挑戦である。速読状態では言葉(ひらがな)は表面を上滑りしてしまう。読み方も試されているのである。それでも内面感の表出を厳密に問えば、まだ「木の実」として表層を保っている。「此の身」は、モノの後ろに回り込んで表皮に包まれている。いまだ意味の連続性のなかに「いのちのき」は立っている。初出誌の同号には、次の詩篇も掲載されている。

(『聖三稜玻璃』)
かなしにさ

かなしさに
なみだかき垂れ
一盞の獨酒ささげん。
秋の日の水晶薫り
餓ゑて知る道のとほきを
おん手の葦
おん足の泥まみれなる。
(『地上巡礼』第一巻第二号、大正3101日)

先行詩篇「曼荼羅」末尾の1行「かなし」を承けて、「かなしさに」を詩題とし冒頭1行としている。企図の上の起句である。ここでは「此の身」から脱皮した自己が、最初から主語となって自己対話を経ながら自己形象化(「おん手」「おん足」)の新生面をつかみ取ろうと前のめり気味である。弾みをつけるのは、「足」と「葦」である。掛け言葉になってしるからである。ただし「泥まみれなる」と予定外なまとめ上げ方にしてしまうので、単純な符丁関係としては響いてこない。むしろ馴染めない完了状態である。それでよしとされた終止形である。

「大宣辭」との間には約半年の時間差があるが、それ以上に2作には寄稿先の問題があった。白秋主宰の『地上巡礼』誌上であったことである。無意識裡に制約を受けかねないからである。しかし、それも翌月号(第一巻第三号)になると、「自己」に移し替える態度ではなくなるのである。

(『聖三稜玻璃』)
樂 園

寂光さんさん
泥まみれ豚
ここかしこに
蛇からみ
秋冴えて
わが()の噴水
いちねん
山羊の角とがり。
(『地上巡礼』第一巻第三号、大正3111日)

 前号を傍らにして一読してみる。すぐに気がつくのは、「泥まみれ」「蛇」が再出していることである。ただし表記は漢字に変換されている。表記の違いによって詩行の立ち上がりが強くなっている。それが、『聖三稜玻璃』で企図されようとする言語の極限化に近づいている。自己解体も誘発している。漢字表記に加え修辞上の変化がその力となっている。漢字表記も修辞上の要請によるものである。

象徴的なのは、「泥まみれ豚」である。生々しい表現である。およそ眈美の欠片もない。しかしそれが泥まみれの偽りのない表情であり、事象の表層である。「蛇からみ」もそうである。生身の喝破である。表現の即物化である。その一方で精神性を漲らせる1行がある。「寂光さんさん」である。「ここかしこに」も目線の高さとしては精神性に発している。「いちねん」もそうである。「山羊の角とがり」が承けるのは、即物性と精神性との両極である。

問題は、直前の「わが()の噴水」である「いちねん」を誘発する前句的な動機をつくるためであるとしても、移行状態として捉えれば「わが瞳」は前作の自己変容であり、「噴水」は次なる詩作の予感噴き上げる飛沫である。そして、変容と予感をとり合わせたものが、「大宣辭」の「たくじょうきんぎよのより/をんなのへそをめがけて/ふきいづるふんすゐ」(傍線筆者)となる。「大宣辭」の大正437日を遡る大正3111日、すなわち詩集発刊(大正41210日)の約1年前には新しい詩学に届いていたことになる。


新しい詩境 以下、新しい詩学に基づいた詩境(「新しい詩境」)を仄聞する。ただし詩学と言っても、上掲詩に関して言えば、それは新しい詩学のなかの一つにすぎない。『聖三稜玻璃』の詩学は一つではない。自己解体ばかりでなく、自己昇華の局面も機会を見ては準備されていたからである。それが次のひらがな詩である。ここにも一つの新しい詩学がある。そして、「新しい詩境」が切り拓かれている。

(『聖三稜玻璃』)
印 象

むぎのはたけのおそろしさ……
むぎのはたけのおそろしさ
にほひはうれゆくゐんらく
ひつそりとかぜもなし
きけ、ふるびたるまひるのといきを
おもひなやみてびはしたたり
せつがいされたるきんのたいやう
あるいはむぎほのひとつびとつに
さみしきかげをとりかこめり。
(『新潮』第二十一巻第三号、大正391日)

 詩題の「印象」から連想されるのは、絵画史における印象派である。でもモネの「印象」ではない。予定調和的な輝きが射しこんでいるわけではないからである。異なる語感である。詩行(ひらがな行)の先に浮かび上がるのは、印象派でも後期印象派のゴッホである。とりわけ麦畑の絵である。詩語の強さが、猛々しいゴッホの絵筆の筆触(タッチ)を連想させるのである。「むぎのはたけのおそろしさ」がそれである。ゴッホが描く一連の麦畑の絵に視覚化された「おそろしさ」の言語化である。

「にほひはうれゆくゐんらく」では、ゴッホの絵筆が色面を解体しているように語彙を解体している。麦畑に〈匂い・熟れ・淫楽〉を想うからである。それだけならまだしも、「おもひなやみてびはしたたり」や「せつがいされたるきんのたいやう」と続発していくからである。

しかもただ単に挑発的なだけでなく、内面感の表出の機敏にも通じているのである。最終行の「さみしきかげをとりかこめり」がそれである。それも「むぎほのひとつびとつに」である。既定の感覚を逸脱した狂気的なゴッホ的美観を発語の核心部に秘めた詩行群は、詩語や詩句の凝縮・極限化とは対極的な、自由な言語的横溢に対する淫楽(「ゐんらく」)に深く浸って自失を厭わない。

以上は見方を変えれば、あるいは対象に深く沈潜したものの眼に一次的に捉えられた、かくもあり得べきかなと仮定された原初の物質感の感知である。それが詩編となったこの作品の性格は、自由口語詩の自由なセンテンスや白秋の眈美調の修辞に系譜を求められるとしても、暮鳥の発語が切り拓いた、従前、日本近代詩に知られていなかった、超時代的な言語感覚による前衛的な詩境である。

次の詩作品にも高い可能性が認められる。しかもかつて手を染めた口語自由詩の響きに耳を傾けているのである。

(『聖三稜玻璃』)
午後

さめかけた(きいろ)い花かんざしを
それでもだいじさうに
髪に挿してゐるのは土藏の屋根の
無名草
ところどころの腐つた晩春……
壁ぎはに轉がる古い(から)つぽの甕
一つは大きく他は小さい
そしてなにか秘密におそろしいことを計畫(たくら)んでゐる
その影のさみしい壁の上
どんよりした午後の(ひかり)で膝まで浸し
瞳の中では微風の纖毛の動揺。
(『詩歌』第五巻第六号、大正461日)

 暗喩の無理強いを指摘されるかもしれない。それを難点として低い評価しか下されないかもしれない。しかしここではこの独特な〝未熟〟な暗喩を可能性に読み替える。「無理強い」ではなく、唐突感から生まれる意外性に富んだ新しい味わいとする。初読では惑わされるとしてもである。気に留めていると――というよりそう仕向けられているのかもしれないが――違った光線の射しこんだ風景画が眼前に浮かび上がるからである。光の交錯する画面の明暗は、どこか退廃的ながらも言葉の単なる遊戯性に失墜するものではなく、物の実在感によって仮構されている。あるいは再構築されている。

人魚詩社同人の萩原朔太郎は、物質から生理的官能を鋭意感覚の上に抽き出した。よく知られた日本近代詩に真新しい感覚である。山村暮鳥にもまた違った感覚が隠されていた。未知未見の近代詩のあらたな可能性を胚胎するものだった。上掲「印象」との詩的融合を試すとき――それはさほど困難なことではないはずだが――「日本回帰」した朔太郎にはなしえなかった言語芸術の可能性を、はるかに高くかつ深い次元で開花させていたかもしれないことが思われてならないのである。


散文詩の「孤立」 可能性というなら散文詩を取上げておかなければならない。『聖三稜玻璃』のそれは、とりわけ高く評価されているものであある。評価者の一人大岡信による山村暮鳥論(大岡信196977)は、『聖三稜玻璃』をはじめとした暮鳥詩が近代詩の一先鋭にとどまらず、その後の戦後詩を含めた「現代詩」を先取りするものであったことをあらためて高く再評価するもので、人々の眼を暮鳥再評価に向き直させる上に大きな功績のあった一人である。

披歴すべき評言であるが、ここでは、詩集上(編集上)の問題点に拘ることから別の機会としなければならない。問題点とは、録られ方と録られた後の詩本の構成の仕方である。ともに特異だからである。先行する『刊行本 三人の処女』では未見の詩形式であるにもかかわらず、遡ると『初稿本』では詩集の一部を占めている。一度録られなかったものが再び録られる程度では特異とまでは言えないかもしれいが、以下の点を勘案すると、中断を挟んだ再録(形式としての再録)はやはり特異としなければならない。

たしかに録られた後が問題である。単純に詩形式の再録で済まないからである。再録したは好いが、詩集のなかで孤立しているのである。寡黙性・緊迫感・凝縮性を詩学としている詩集だからである。とりわけ次の詩篇(「囈語」)との詩体上の対極感は、際立つ特異性である。同時に掲げてみよう。ただし散文詩は長編である。部分掲出にとどめる。

(『聖三稜玻璃』)
   囈 語

竊盗金魚
強盗喇叭
恐喝胡弓
賭博ねこ
詐欺更紗
瀆職天鵞絨(ぴらうど)
姦淫林檎
傷害雲雀(ひばり)
殺人ちゆりつぷ
堕胎陰影
騒擾ゆき
放火まるめろ
誘拐かすてえら。
(『ARS』第一巻第三号、大正461日)

A` FUTUR

まつてゐるのは誰。土のうへの芽の合奏の行進曲である。もがきくるしみ轉げ廻つてゐる太陽の浮かれもの、心の日向葵の音樂。永遠にうまれない畸形な胎兒のだんす、そのうごめく純白な無數のあしの影、わたしの肉體(からだ)は底のれないだらけ……銀の長柄の投げ鑓で事よる讃美かい探る。

わたしをまつてゐるのは、誰。

黎明のあしおとが近づく。蒼褪めたともしびがなみだを滴らす。眼れる嵐よ。おお、めぐみが濡らした墓の上はいちめんに紫紺色の罪の靄、神經のきみぢかな花が顫へてゐる。それだのに悩める光のない月はくさむらの消えさつた雪の匂ひに何をみつけやうといふのか。嵐よ。わたしの幻想の耳よ。

(以下12聯分略)
(『風景』創刊号、大正351日)

四字熟語形の「囈語」の方は、唐突に差し出されたなら字面に少し面食らうかもしれないが、詩歴を辿って来るとさもありなんの思いで受け止められ、終にここまで来たか程度でそれほど驚かされない。それに助詞を排して表向き説明には背中を向けているようでいてどこか自己解説的である。いずれにしても多行詩から二行詩を経て、一点集中的な極限化を図った「漢詩」に至る経緯は必然性のあるものである。

一方の散文詩は、詩集全体に対して一人昂然と立ち向かい、詩集を貫く内的ベクトルに相反するように詠唱的で饒舌を恣にして放埓である。なぜ録ったのであろうか。最初の主宰誌『風景』創刊号に載せた作品だからか。それもたしかに収録の大事な要因の一つであっただろう。でもやはり内容からである。一冊の体裁を崩してしまったとしても外せなかったのである。それに精読を深めると、必ずしも統一感を阻害していないのである。厳しい言葉遣いが全篇(長編)を占めているからである。

ここでは言葉と言葉が、意味の解体と再構築を同時実現する文脈を生んでいる。その上に立ち上げられた詩行は、本来なら改行によって辛うじて行としての横並びが許容されるところを、前後関係に決然たる態度で逸脱を容れこんで、それをまともに縦に繋げてしまう。しかも確信的である。それが絡み合う暗喩を蜘蛛の糸のように詩聯に巡らすのである。散文詩としての斬新さは他の追従を許さないものがある。大岡信を捉えた魅力を生み出す言語力**である。頁上見かけが「特異」なだけに、かえって一冊の詩集をより高い言語世界に押しあげ、同散文詩を入れこんだ発光体(プリズム)の煌めきを増幅してやまないのである。

この画期的とも言える言語芸術の誕生を詩学として読み解くためにも散文詩を詩歴として辿っておきたい。一度は背を向けていた時期(『三人の処女』)の前後の一瞥である。

* たとえば、ある作品(「現実」)が惹きつける「奇妙な力」の源を覗きこみ、「詩の驚き」となっている「グロテスク」や「稚拙な古代的笑い」「ユーモア」への処し方や巻末一行での変わり身の早さ(「鮮やかな転換」)を存分に味わって、暮鳥の先鋭に思いを馳せる。「あるいはランボーのいくつかの韻文詩の反響があるかもしれぬと思われるこの詩は、また、たとえば西脇順三郎や滝口修造や吉岡実といったのちの詩人たちの詩に、ある先駆的な類縁性をもっているように感じられる。暮鳥のこの種の詩は、もっとさまざまな光をあてて眺めてみる必要があると思うのである」(大岡1977)と。

** たとえばその斬新性についてこう述べる。「この天才的な直観と、狂気すれすれの、うわごとに近い幻想的な言葉との結びついた、全体としては甚だ無秩序に乱雑な、しかし何度読みかえしても強く惹きつける不思議な力をもった散文詩は、口語自由詩がもたらした言語意識上の開放感なくしては書かれ得なかった種類の、まさに『ばくれつだん』的な作品であった」あるいは「詩全体が、未完成のままに、おのれ自身の一回性を主張している」(大岡1969)と。


「複合詩」の克服 山村暮鳥の散文詩は改行詩の一環として開始される。具体的には部分的な一行化(長行化=散文化)の試みである。初出誌は、明治449月の『詩歌』である。『初稿本』を構成する詩篇としては比較的新しい部類である。

(『初稿本』)
午 睡

正午(まひる)過ぎたり……窓の外、いとしづかに三味の()(ゆる)めり。日は廊近くすべりて光り、わが室は乾きて没薬(もつやく)の如き匂ひの黄は空気に蒸せり。
軒に(すく)はんとする黄蜂(ウオスブ)
浴室の玻璃(ガラス)、曇らされば真裸(まはだか)の人々の動くも見えて昼はさびしきほどに静かなり。三味の音はやや強くなれり。
(ものう)さは、されど大理石(なめいし)(ゆか)に横り、浴槽(ゆぶね)(もた)れながらに聴く心の底よりあふれ湧きくる温かき湯の音の絶えざるが如し。見よ。いたづらに夢見るらしき瞳を開きて衰弱しめす混浴の群のさざめき……
午睡より眼ざめて騒ぐ心の前よ!
野卑なれど再び弛き、快好(ここちよ)き画の三味の音。
或は噴水(フオント)めぐる微風よ!
(『詩歌』、明治449月)

作品の構造分析のためにこれをかりに改行詩に改めれば、冒頭1行などは、「正午(まひる)過ぎたり……/窓の外、/いとしづかに三味の()(ゆる)めり。/日は廊近くすべりて光り、/わが室は乾きて没薬(もつやく)の如き匂ひの黄は空気に蒸せり。」のとおりaeにも改行可能である。それをここでは一続きとするのである。なにゆえか。一行化によって叙景効果の増大が期待できるからである。それもなんのためかと言えば、午睡のためである。まどろみを深めるための叙景の整えである。

問題は、一行の立て方の不均等である。明らかなとおり均等化しているわけではないからである。ここには散文詩と改行詩の構造的違いが横たわっている。実は一行の字句の多さ(長さ)に対して改行詩の方が開放的で視界も開けている。ときに多弁である。その点、散文詩は詩行の連結とそれによる前後関係からの自縛で、むしろ字句の多さとは反対に閉鎖的である。限られた窓枠しかないのである。それでも改行詩に拠らないのは内景観の創出のためである。改行詩ともまた散文とも異なる散文詩に固有の時空が期待できるからである。

「午睡」のような準散文詩となったのは、おそらく改行詩との差別よりおそらく散文との差別化のためである。暮鳥は何度か散文詩を試みる。そのたびに差別化を目に見える形で表さなければならない。「午睡」で言えば、部分的な一行化(長行化)の試みである。しかし一行化で押し通すことができない。結局、差別化しきれないのである。勢い改行詩の力を借りなければならなくなる。改行詩との折衷である。同時に折衷が選択されなければならない所以である。二行目(承句)と最終3行(結句)である。それも目に見えて極端な短行化の取り入れである。折衷への誤魔化しである。誤魔化しを含めて限界だった。それでも限界と知った上での試みだった。

「複合詩」の創出を企図していたからである。詩行のつくる長短の違いが、たんなる字数の相違にとどまらず、表出法の違いとして出来する叙述的効果を期待していたのである。「改行形」に立ち返れば明らかである。adeの間に厳然とした叙述法の違いが横たわるからである。eの「わが室は乾きて没薬(もつやく)の如き匂ひの黄は空気に蒸せり。」は、説明文そのもので、助詞「は」を繰り返すなど冗漫でさえある。改行詩を選択していたなら推敲の手が加えられていただろう。たとえば、「没薬(もつやく)の如き匂ひの黄」と名詞止めにする手がある。しかし、それでは「複合詩」ではなくなってしまう。冗漫は簡潔のためであり、簡潔は冗漫のためである。それが複合詩であり、暮鳥の初期散文詩、正確には鉤括弧の「散文詩」であった

しかるに、「A` FUTUR」は違う。外形も変化しているが、なによりも中身が違う。縦に繋がれていても前後関係を截っている。「複合詩」は、前後関係の不安定を詩的効果の拠り所としている。それが個別に詩行を立ち上げる感じに一行ごとに力点が置かれている。一続きの流れを前提とした散文詩一般の常道を意識的に破壊して、一文の意味づけを前後で繋げない叙述法につとめて偏向的である。しかしそれがまったく新しい詩的表現を獲得することになる。散文と完璧に袂を分かった、差別化の上に立ち上がる内景観の創出である。「複合詩」の克服の上に成ったものである。いくつか拾ってみよう。とくにそれが強調気味な聯を揚げる。

蝙蝠と霜と物の種子(たね)とはわたしの自由。わたしの信仰は眞赤なくちびるの上にある。いづれの海の手に落ちるのか、靈魂(たましい)(そなた)は秋の日の蜻蛉(とんぼ)のやうに慌ててゐる。汝は書籍を舐る蠧魚と小さく甦る。霊魂よ、汝の輪廓に這ひよる脆い華奢(おしゃれ)な獣の哲理を知れ。翼ある聲。眞實の放逸。再び汝はほろぶる形象(かたち)に祝福を乞はねばならぬ。5聯目)


わたしのさみしさを樹木は知り、壺は傾くのである。そして肩のうしろより低語(ささや)き、なげきは見えざる玩具(おもちゃ)を愛す。猫の瞳孔(ひとみ)がわたしの映畫(フヰルム)の外で直立し。朦朧なる水晶のよろこび。天をさして螺旋に攀ぢのぼる汚れない妖魔の肌の香。(7聯目)

はるかに燃ゆる直覺。欺むかれて沈む鐘。棺が行く。殺された自我がはじめて自我をうむのだ。棺が行く。音もなく行く。水すましの意識がまはる。(10聯目)

他の聯も大同小異である。前後が合意関係で繋がっていることに耐えがたいほどに、想起は一回ごとである。掲出した範囲で言えば唯一10聯目の「棺が行く」がリフレインになっていて既知的な前後関係を演じているが、それも裏切りのための前奏曲にすぎないことがすぐ明かされることになる。「水澄ましの意識がまはる。」で閉じられるからである。しかし、意識を覆し続けて慄然たる言語の原初風景を曝け出しておきながら、最後はこうである。

わたしの騾馬は後方(うしろ)の丘の十字架に繋がれてゐる。そして(ものう)くこの日長を所在なさに糧も惜まず鳴いてゐる。 15聯目=終聯)

足許を掬われた思いになるにしても、諦念的思いで接ぎ足されるべきと端から決め込んだ最終聯である。早すぎた詩才のなせる技である。以下はその「詩才」の運命(同時代評)である。おそらくそれが「文才」であったなら違った運命になっていたにちがいないと思われる時、そこに見るのは、詩人故に引き受けなければならなかった、暗然とした「運命」のはじまりである。



 6 前衛詩の同時代評

大方の酷評(其の1) 先ずは日夏耿之介。暮鳥の先鋭にかかってはかの学匠詩人も眉をひそめて、只管、一気に捲し立てるしかない。同じ書(『改訂増補 明治大正詩史』下之巻、1949年)の二か所で酷評を連ねて憚らない。最初は「福士、山村は混沌として帰趨を知らず」(59頁)の程度で済むが――「福士」とは、自由詩社の一員である福士幸次郎のこと――次は、詩評を経て最後はほとんど人格否定的な有様である。

尚、外に山村暮鳥と室生犀星とが此時分人間愛の詩感を歌はうと試みたが、前者は努力に中心がなく、詩念に焦点がない、とりとめのない性格であつたから、「聖三稜玻璃」の類の
まるめろコツプたへがたく
だとか
卓上なぎさ
なみひるがへれ
だとか、官能の交感の新味をねらつてしかも本然性に欠けて、凡俗の好奇心を挑発するにすぎず、又「星」の如き叙事体を試みて失敗し、わずかに「単純な朝餐」の凡境でやゝ佳い芽生を示したが、其処にも感情の不自然な表現の癖を脱し切らなかつたのは、一に彼の軽率な性格がものことごとくに失敗させたに外ならぬ。(同書・98頁、原本旧字)

この評言にはすこしばかりのテキストクリティークが必要である。「『聖三稜玻璃』の類の」と前置きしながらも例証とされたのは、『聖三稜玻璃』以降の詩篇(『詩歌』大正5111日)であり、詩題が掲げられた「星」(第4詩集『梢の巣にて』収載)「単純な朝餐」(第3詩集『風は木にささやいた』収載)は、『聖三稜玻璃』に180度背を向けた、大転換後の第3・第4詩集に納められたもので的外れだからである。批評者が誤引用している点もある。「まるめろコツプたへがたく」は、「まろめろ」ではなく「まろべるコツプたへがたく」(傍線筆者)である。「まるめろ」(漢字表記では「榲桲」)は植物のカリンのことであって、「まろべる」は「転べる」の謂いである。誤引用は当然に指摘されているところであるが(田中清光・1988247頁)、これでは暮鳥の立つ瀬がない。

ケアレスミスである。同じ詩篇の先行行に「まるめろ」が出ているので、それとの取り違えたのでる。問題なのは誤引用にあるのではない。違う作品を一つの詩篇のように掲げて上のような辛辣な批評としてしまっていることである。加えて、「『聖三稜玻璃』の類の」と言いながら、暮鳥を語るには欠くことのできない、『聖三稜玻璃』に立ち返っての評言ではなかったことである。一番の問題点である。

いくら日夏耿之介の筆とはいえ正当な批評でないばかりか、「わずかに『単純な朝餐』の凡境でやゝ佳い芽生を示したが、其処にも感情の不自然な表現の癖を脱し切らなかつたのは」のくだりは、はたして暮鳥を論ずる資格があったかを疑わせずにはいない。まるで見当違いだからである。「感情の不自然な表現の癖」などどこにも見出せないからである。それより、その「癖」を詩学として自己不定した上に為った詩集でありその一篇である。日夏は暮鳥の詩学を無視している。そもそも批評の条件を整えていない。諸書の暮鳥論に日夏の評言は引かれる。学匠詩人の名誉にとっても引かれるべきではない。


大方の酷評(其の2)さらにクリティークを続ける。そもそも、何故、『聖三稜玻璃』以降が使われたのかである。テキストがあったのである。川路柳虹の暮鳥批判である。柳虹が暮鳥詩の批判対象としたのが、実は日夏が引用した詩行のもととなる二編の詩である。日夏の引いた順で言えば「風景」そして「肉体の反射」である。ともに大正511月号の『文章世界』に掲載された作品である。同号は「詩壇九人集」と銘打った特集号である。その翌月の同誌12月号に乗ったのが、川路柳虹の各詩人宛の批評(「詩壇評言」)である。したがって暮鳥単独のものではないが、日夏評のなる経緯としては、同批評をテキストとして後年の大著を著わすことになったのである。

あらためて日夏評の問題点を衝けば、最初から偏向があったことである。川路評が暮鳥への攻撃文になっていたからである。同文を再批評した暮鳥研究者の一人田中清光によれば(田中198823645頁)、「威丈高な詰問状」の様相である。なるほど、次のように言うくだりは、まさしく詰問状にほかならない。少し長いが必要上引用しておく。ただし田中著からの孫引きである。

山村君に対してはあまり多くを語りたくない。其問題は氏の詩が「ほんとの詩」か「うその詩」かといふ事で決する。僕は氏が良い霊の所産者であるならもつと詩に進歩(アドヴンス)があると思ふ。歩みがあると思ふ。変化があると思ふ。併し氏の詩は『三人の処女』から今日に至るまでどのも一つとして変りはない。何の動も何の進歩も見えない。そのはいつも手さきで詩を作つてるのではないかと疑はしめる。そこで一番にとつて悲しいはリズムがめちやちやな事だ。感動から発足した詩ならリズムはつも一貫してゐる。文字と文字、調子と調子の間には密接な関がある。にはそれが((ママ))離滅裂だ。言葉はどんなに晦渋を極めやうとそれが作者の必然性から出たものならリズムはある。僕ののはの詩がの必然性から出たか否かと云ふ事である。その点にてはは山村君に質問したい。そして明確な返答をきたい。そしての返答はあるとかないとか云ふぱりしたものでありたい。「卓上なぎさ」、「なみひるがへれ」と言つた調子では御免蒙る。はその上での詩が「ほんとの詩である理由が明らかなら兜を脱いで僕の不明をびるし、もし「うその詩」だといふ証拠が挙れば潔く詩壇から暮鳥の詩を絶滅したく思ふ。

 なんとも返す言葉に窮する。一つには川路柳虹自身の作品を知っているからである。一つには同文引用者(田中清光)が語っているように、どういう読み方をすればそのように断定的なことが言えるのか不思議でならないからである。すなわち、「氏の詩は『三人の処女』から今日に至るまでどの詩も一つとして変りはない。何の移動も何の進歩も見えない」のくだりである。日夏耿之介の比ではない。直近の同時代批評だからである。「ほんとの詩」か「うその詩」とか「氏の必然性から出たか否か」とか、その他のくだりも含めて評言の内容は、まともな批判水準にも達していない。そもそもその気がない。

ともかく「何の進歩も見えない」というからである。だからここまで「詰問」できる神経に驚かされる。そして、「潔く詩壇から暮鳥氏の詩を絶滅したく思ふ」とまるで害虫駆除がごとき言い様を公言して憚らないことである。ただし朔太郎の、「三木露風一派の詩を追放せよ」(「詩論」)も極めて辛辣である(最後は和解調に軟化しているが)。後述の「誤訳事件」の際もまた然り。今とは「言葉遣い」が大分違う。その点は頭に入れて当たらなければならない。評論文体を論うわけではないが、暮鳥の受け止めるそれを思うとき、それが詩にどのように関わってくるかは、詩歴を辿る上からも念頭にとどめ置く必要がある。

なお、同誌上には「詩壇九人集を論ず」で柳沢健の評言も載っている。「(前略)一体、この作者は何の為に斯んな詩を作るのか判らない。物好きといふより以外に、詩作の動機が果してあるのであらうか。(略)全く意味の無い、邪気に充ちた悪戯に過ぎない」と。やはり辛辣である。

いずれにしても、川路柳虹によって名指しされた暮鳥が、詰問に筆を執って返すことはなかった。かわりに綴ったのは、知友宛の書簡だった。

詩人としての暮鳥は四面楚歌なり、弱き彼は時々苦悶すれど、強き彼はますますかくして堅く且つふん張れり
ああ、イセイのいい若者の多い日本よ、そして何かゞ群盲の多数決の日本よ、然し彼暮鳥は決してその詩をすてざる可し
――かくして凶作なる。  (花岡謙二宛、大正5112日(部分))。

* 川路柳虹の詩を大正7年刊の『勝利』から一篇(「死」)だけ引いておく。

「死」がこゝにゐたなら/しつかりと「生」を握らう――/おまへにとられないために。(改聯)「死」がむかうにゐたなら/じつとして話しをしてみよう――/鏡に映る姿と話をするやうに。(改聯)「死」がしずかにやつてきたら、/快く眠やう、たつたひとりで――/ちがつた朝をむかへるために。

  新潮社『日本詩人全集12』の巻頭図版(顔写真)の下段に掲げられた作品である。恣意的に選んだわけではない。長く書き続けた詩人である。最晩年の「波」(『波』昭和32年)は佳い作品である。


一詩人(信徒)のコメント 同時代の暮鳥評を現代の眼であらためて取りあげた、暮鳥研究者の一人(中村不二夫=詩人・聖公会信徒)は、論争に及ばなかった暮鳥について――「ここで問題なのは、これらの批判(柳虹・柳沢、筆者注)に対して、暮鳥が再批判を投ずることなく、(略)非論理的に自己韜晦してしまったことのほうにある。暮鳥に要求されたのは、柳虹や柳沢の批判を真摯に受け止め、現実重視の象徴性と現実事象から自立した言語の象徴性について論じ、あるいは生活派と言語派という芸術論争に進展させるべきことであった」として、どうして「『聖三稜玻璃』の世界を正当化する論理を、自己の内部に構築できなかったのであろうか」(中村2006155頁)といささか嘆息気味になる。

同じ聖公会の信徒としても時間を超えてかかる疑問をぶつけなければいられない。いずれにしても、「これら一連の動き(言われるままで沈黙に徹していたこと、筆者注)は、暮鳥の内側から言葉と思想を練磨する機会を、一切もたらさなかった」として、それこそが問題だったと言い、「この一方的な論争を通じて見えてくるのは、すべてそのような自己矛盾ばかりである」(同159~60頁)と、釈然としない思いを覗かせてみせる。ともあれ、語られる「そのような自己矛盾」とは、本来なら神と言葉との関係(創世記)を通じて、象徴主義の側に立っているはずであった暮鳥の存在形態に対するそれであった。



 7 「ばくれつだん」としての詩と詩想

詩歴上の一大転換 そろそろ条件が整ってきた。〈山村暮鳥と詩〉の問題(「副題」)にも筆を起こせるだろう。この後、暮鳥のなかに生起した一大転換は、日本近代詩上稀に見る変貌(詩的変貌)だった。「変貌」を使うのは、創作一般を超えたものであったからである。詩的行為の場合、変貌より内面を窺わせる「変質」の方が相応しいが、暮鳥を襲った変化は、内面を超えていたのである。

なぜこのようなことが起こったのか、あるいは可能だったのか。作品同士が激しく互いを打ち消し合っているので、もはや上述したような作品論からの理解では押し進めていけなくなっている。叙述としてはここで一度道を断たれてしまった状態である。作品とそれを生み出した詩人との関係が、個別の作品ではなく詩という文学形式として真っ向から対峙しているからである。「詩歴」それ自体を「作品」に見立てるようなものである。最終的には暮鳥個人を超えた範疇で記述し直さなければならない。「副題」が近代詩史の一部となる瞬間であるが、以下の記述は暮鳥の範囲内にとどまる。

ところで一大転換(「変貌」)は、暮鳥論一般のなかでは、「挫折」「後退」あるいは「解体」「急転換」「転向」「転回(退却)」とされる。たとえば、上掲田中清光は、そのまま行けば多くの成果が期待されたはずだと仮定しながらも、「現実には暮鳥はあまたの打撃に打たれ、挫折せざるをえなかった。そしてその錯綜した、矛盾を孕んだ営為は、そこから新たな展開を見せることなく断たれてしまった」とし、以下のように結論付ける。

彼の見せた可能性は、その挫折によって途絶えてしまったし、彼は独自な前衛の位置からの後退を余儀なくされる。次の詩集『風は草木にささやいた』(大正7年)では、一転して平明な表現、既成の文脈上で、饒舌に人間讃歌自然讃歌を歌うという、西欧近代に現れていた一傾向とも合致し、当時のわが国にいくらでもみられた詩法と内容とをもつ詩人に転化してしまった。詩は肯定的になり、それまでの彼がもっていた近代への問いただしという根源的な位置を失っていったのである。(田中1988270頁)

 ではなぜ挫折してしまったのか、田中も指摘しているように根柢には先鋭的技法に行き詰まりを感じていた点があり、そこに予期せぬ「誤訳事件」が追加的に重なって「挫折」をもたらし、結果、「後退を余議なくされる」に至るとする。


「誤訳事件」と文学的止揚 しかし、別の分析もある。それを(「誤訳事件」を)二次的な要因ではく一次的なものと捉え直す理解である。上掲中村不二夫が辿る暮鳥変質論である。同論を繙く前に「誤訳事件」について触れておかなければならない。暮鳥が雑誌に発表したボードレールの翻訳に対して、同郷の一青年山崎晴治から酷い誤訳だと口を極めて辛辣に批判(指弾)されたのである。暮鳥にとっては郷里の新聞である『上毛新聞』の紙上であった。翌月、暮鳥の記事も載せられる。反論ではなく、指弾を〝謝辞〟で受け止めた「釈明文」であった。この謝辞(釈明文)を含めて「誤訳事件」と呼ばれている。

英訳からの重訳であった。「暮鳥氏の語学が憐れむべき貧弱で適当な訳語を知らず文法の知識が絶無」と、英語力は中学生にも劣ると罵られ、訳出にかかる文章力についても、「小学生とても持つと文章らしい文章を書くことができる、暮鳥の文章は小学生以下である」と貶められる。大正511月のことであった。

折しも詩壇の『聖三稜玻璃』への非難が誌上を賑わせていた頃であった。正確には直後だった。題して「不遜の言=暮鳥氏訳『無韻小詩』に就きて」である。発表雑誌は、朔太郎と犀星とで興した『感情』だった。指弾をうけて翌月に同新聞紙上に上記のような「釈明文」を認めるが、そのなかかでも述べているように同紙面に接した暮鳥は、「卒倒」してしまったのである。傍目には誇張したように聞こえたかもしれない。然にはあらず。「過誤」の隠れ蓑にしようとしたわけではなかった。傍目を気遣う余裕すらなかった。人生最大の「事件」であった。

この衝撃を大前提として、当時の時代思潮でもあった白樺派の人道主義と「変貌」とを取り結んだ解釈を企てたのが中村不二夫であった。なぜかくまで変貌しなければならなかったのか、その内的要因をさぐった結果、見出されたのが、必然ともいうべき「詩風」の180度転換であった。詩境と言わず詩風と言うのは、詩境なる表現が使えないほどの一大転換だったからである。「変貌」を使うのと同じ事情である。痛々しい「釈明文」(=全面降伏文)まで書かせた「誤訳事件」は、その傷の治癒をボードレールとの訣別という形で暮鳥に求めたのであった。それが中村の導き出した変質論のエッセンスだった。

ボードレールは、暮鳥が仙台の教会を立ち去る時、全所有として所有していたのは、懐の一冊のボードレール(英訳版)のみであったと自ら綴るほど(「半面自伝」、大正68月)、暮鳥にとっては彼の詩学の根幹をなす特別の存在だった。まさに心酔だった。その詩学が、訳出を試みさせ、それが結果として本人を卒倒するまでに打ちのめし傷つけてしまう。故に治癒には大本を断つに如くはない、という考えが浮かぶことになる。

中村不二夫は、「事件」後も翻訳を続けていた暮鳥を訝る。本当なら一切縁を切りたくなるところだからである。調べると、翻訳作業からボードレールに関しては一切形跡が見出せないことが判明する。「事件」の深い傷を長く引きずっていた証であった。翻訳から締め出すだけではまだ足りなかった。影響をすべて消し去ることだった。「詩学」の放棄である。このくだりを中村不二夫は次のように記す。

(前略)つまり暮鳥にとって、ボードレール詩の誤訳問題は、翻訳活動全般の放棄に到るものとはならなかった。単に、当面の翻訳活動から、ボードレール訳部分だけを放棄するということに、問題はすり替えられていった。しかし、暮鳥にとって、このボードレール訳の放棄は、意外なところに波紋を及ぼすことになる。暮鳥にとって、ボードレール訳の放棄は、単に翻訳活動を限定するというだけでなく、すべての創作活動からボードレールの影響を断つということにまで発展するのである。なぜなら、それまで暮鳥の創作活動を支えてきたのはボードレールであり、誤訳事件によって、余すことなくその貴重な蓄積が、否定的に相対化されることになったのである。暮鳥には、誤訳問題から波及して、自己の創作活動全般にボードレールに対する心理的抵抗が生じでおり、その無言の圧力は予想以上のものだった。そしてついに暮鳥は、精神的な軋轢に屈し、自己の創作活動のすべてから、ボードレールの影響を排除することを決意する。その具体的発現の一つが『聖三稜玻璃』的世界の解体なのである。(中村200624041頁)

では白樺派の人道主義は、どのように「解体」に関与したのか、あるいは、芸術至上主義を認めない平易な言葉遣いからの起筆法を暮鳥に手に入れさせたのか。引用としては前後が逆になるが、中村不二夫はその点について次のように言及している。

それでは、人道主義的詩風に転換するに際し、暮鳥は一体どのような方法で、それ以前の芸術至上主義的な『聖三稜玻璃』的世界を精算したのか。暮鳥は、過去の主知的な芸術至上主義性を全面的には清算せず、新たな生活主義的傾向の詩を、全く独断で具体的に書きはじめてしまう。従って暮鳥は、従来の『聖三稜玻璃』の芸術至上主義的世界と、新たな「白樺」的人道主義の文学意識という二つのカテゴリーを、一つの人格の内に同時に所有していたことになる。暮鳥は、前者の芸術至上主義的世界を批判的に総括することは一切せず、一方的に後者の人道主義的な詩を作ることで、その矛盾の解決を図ってしまう。つまり、これは人道主義の平易な文体の中に、難解・晦渋な『聖三稜玻璃』が自然に解体されたことを意味する。(同、240頁)

 しかし、人道主義自体を詩学として単独に取り上げれば、暮鳥における人道主義的詩風への転換は、「消極的に誘導されるという結末」の先にあるものであるとして、「暮鳥の『白樺』的理想主義への転換は、詩的な技法の上からは自然主義の水準にまで後退したと見なければならない」(同242頁)とする。一般的な文学的止揚とは異なるものとしなければならない。そう語られている。卓見である。

ただし奇異である。当の本人はそうは思っていなかったからである。むしろ「後退」をバネにしているほどである。しかも「後退」ではなく自らは「蘇生」したと考えていた。それも蘇生の場は、かつての同人朔太郎と犀星とで発刊した『感情』であった。こう綴る、「『感情』は『卓上噴水』の延長であるがそこには驚くべき発展がある。蘇つた自分はまずその声を此処からあげた。自分はよみがえつた」(「半面自伝)と。「此処」とは『感情』のことである。次がその「蘇生」した詩、あるいは「発展」した詩である。この局面で識者が暮鳥論として必ず引く詩篇である。

(「拾遺詩篇」)
冬近く

遠方の
どこかの山で
雪がふる
それだから
こんなに静かなんだ
冬の日脚をみろ
草の実のやうにはじくれた
ああ木の葉つぱ
わたしはそれを知つてゐる
(『感情』第二年第一号、大正61月)

 この時、同時に掲載された詩篇は6篇である。その内の1篇であるが、これらの「此処からあげた」作品を念頭に「自分はよみがえつた」に続けてさらに綴っている。「それを証拠立てるものは近く自分のパトロンによつて世にでる新詩集『風は草木にささやいた』である」と。大正68月の自叙伝である。新詩集である第3詩集『風は草木にささやいた』が刊行されたのは、翌大正711月(東京、白日社刊)である。作品数123篇で長編詩を含む大部(「実に約500頁の厚さ」(茂木正蔵氏宛書簡7101日付け))であるが、全篇、上掲詩のような、あまりに簡明かつ平易で修辞法以前の作文力に充足的な、そしてその姿勢を喧伝するかのような叙述態度である。同じ詩人が刊行したとは思えない内容(詩風)である。

以下の暗示的な言辞(書簡)に接するとき、新詩集の企図それ自体に、姿を替えた「ばくれつだん」を思わずにはいられないのである。次の書簡は、新詩集刊行前ながらすでに新スタイルによって半年を経た段階で投函されたもの(後半部分の一部)である。

私は百姓をはじめます。土地すでに借りました。
私は草木のやうに生きやうとしている。
子どもになつて生まれかわつた私はいま言い知れぬ世界と努力とを感じています。それは従来のやうな感覚上の個性としてあらはれた異常な神秘とも言ふべきものではなくて、寧ろ大きな大きな普遍的な生命の、人間としての無限の感情です。つまり自然に喰い込んできたのですね。ああ、ありがたい!

批評家という印象の啄木鳥は一斉に私及び私の作品(新しくなった)をみて沈黙しました。そしてそろそろ耳を傾けはじめました。
此の間にあつて京都の土田杏村氏独りが私を天上まで担ぎあげました。然し私はもう宇頂天になれません。何となら私の足はしつかりしつかり地を此の大地をふみしめてその大地の脈拍を感じ知つているからです。(大正67月本井商羊宛)(傍線筆者)

 よく使われる書簡である。と言っても使われるのは、傍線部分ではなく、その前の「土地に帰る」の部分である。新しい詩のスタイルと符牒を合わせた近況報告だからである。しかしここで掲げたいのは、傍線部分である。暗示だからである。同くだりを使役形に読み替えれば、語られようとしている真意はより明らかになる。「私の作品(新しくなった)のまえで沈黙させました」である。復讐である。あるいは『聖三稜玻璃』で蒙った四面楚歌に対する反撃である。ただし〝自爆行為〟によってである。

これは中村不二夫の導き出した「治癒」と同じかもしれない。おそらくそうであろう。ただ「消極的に誘導されるという結末」ではなく、ここではそれを「積極的に誘導された結末」と解りたいのである。それが〈慕鳥と詩〉の問題とともに〈近代詩の必然性〉という詩人論的な課題として、新たな議論を呼び起こすからである。おそらく慕鳥の詩歴の最後を飾る晩年様式(「諦観」)もこの問題の延長にあるべき姿として見出されることであろう。

 * 暮鳥が懐中にしていたというのは、F.Pスターム英訳『ボオドレエル詩集』ウォルタア・スコット社、1906年発行、である。同英訳版は、ボードレールほかヴェルレエヌ、現代フランス詩集の叢書の一冊であったという。英訳版やその原書をもとに「誤訳事件」を詳細に論じた識者(関川左木夫)の高見によれば、まずこの叢書は、「外国文学資料の乏しい明治期に安価で容易に入手できる文献であったから」として、その恩恵に与った詩人・文学者の名を多数上げ、「この時期の文学者あるいは翻訳者で、この叢書と何らかの関連をもたないものはなく、むしろまったく無関係なものを探すことが困難なほど、測り知れぬ恩恵を与えている資料であった」(関川198244頁)と述べている。そして本題の「誤訳事件」に関しては、当時の翻訳能力を思えば、暮鳥訳が著しく劣るわけではなく、むしろ誤訳を押してボードレールの詩精神を鋭く探り当てているとし、誤訳箇所のみに終始する指弾は、朔太郎に与えただろう影響一つを考えただけでもきわめて片手落ちだと指摘する。その上で指弾者山崎晴治の自己顕示欲は、とんでもない大過であったとも述懐する。逆指弾を籠めたものである。神妙に聞き入らざるを得ないくだりである。暮鳥の名誉のためというより、普く「筆誅」への戒めとして掲げておきたい。

    今日からこの誤訳指摘を冷静に解雇してみると、晴治自身にボオドレエルの芸術に対する知識を十分にもっていないという反省がないままに、英語の若干の誤訳を根拠に――この時期の翻訳能力は泡鳴訳、末雄訳によって例証したのと同程度――暮鳥のボオドレエルの訳詩を停止させ、同時に『聖三稜玻璃』の新詩体もまた放棄させて、結果的にわが国近代詩の発展を妨害して、あるいは甚大と推測してもよい目に見えぬ損害として残していることが惜しまれるわけである。(後略)(関川1982141頁、傍線筆者)


詩人論の視角 暮鳥にとって詩とはなんであったのか、日本近代詩として問うべきであろうがいまは難しい。困難なのは、たとえば新体詩の興りのこと、その後の明治詩の推移のこと、そのなかで暮鳥が詩を書くに至った内的動因の在り処のこと、以上を近代詩の成立と展開という詩史的文脈からではなく、個々人の詩人論的な問題として新しい文脈で再述しなければならないからである。

ここではなぜ暮鳥が転換それも大転換しなければならなかったのかを、一人の詩人の詩的体現の在り方として再評価する範囲にとどめなければならない。そのために暮鳥とは一時詩社を共に立ち上げた間柄の、同人関係にあった萩原朔太郎や室生犀星を取上げ、それぞれにとっての詩とはなんであったかに着目しながら、彼等のなかの詩の意味の違いを通じて、最終的に「ばくれつだん」とともに「もう一つのばくつだん」の意味を、近代詩を背負った詩想の次元として再措定してみたい。

三者の関係は、とくに朔太郎と暮鳥との関係が、詩学的に深い。ここでは朔太郎との比較を中心に筆を進めるが、犀星と暮鳥とは生い立ちや幼少年期の不遇な環境が似通っており、その一方で二人が進んだ詩歴が異なるだけでなく真逆だっただけに、近代詩の成立と展開を、二人の違いとして見ることにも興味深いものがある。それに同じ比較でも一般的には暮鳥をはるかに超えて日本近代詩の巨星に数えられる両人である。したがって限られた比較であっても、三者の比較は近代詩一般に届く視点を内包している。後日のためのメモとしておく。

標語的に並べれば、暮鳥の「変貌」、朔太郎の「回帰」、犀星の「不変不易」となる。朔太郎の回帰とは、言わずと知れた「日本回帰」である。文語から半口語、そして口語と進んで日本近代詩に「真」の口語自由詩を打ち立てた後、一転して文語に回帰した、しかも回帰を「敗北」と弁解する詩歴がここにある。朔太郎にとって最後に「敗北」となる詩とはなんであったのか、暮鳥に立てたと同じ問いである。詩人論の入口である。


朔太郎の履歴事項 暮鳥と朔太郎とは、ともに群馬県生まれの同郷である。年齢も近い(暮鳥が2歳年上)。しかしそれ以外は生い立ちや生育環境をはじめとしてその後の人生上の経歴は大きく異なっている。同郷同年代であることは、却って両者の相違を際立させることになる。

表向き普通の農家に生まれながらも、特異な環境下で極めて暗い幼少年期を過さなければならなかった暮鳥に対して、町(前橋市)の上層階級に属する町医者の家に生まれた朔太郎は、裕福な幼少年期を過ごす。学歴も家の家業と裕福さを象徴するような贅沢な内容である。以下簡潔に記す。

地元の前橋中学校を卒業した朔太郎は、早稲田中学校補習科に入学し、翌年には第五高等学校(熊本)第一部乙類(英文科)に入学する。家業を継がないための意志表示を兼ねたものであった。しかし学業不振で翌年には落第となり、第六高等学校(岡山)第一部丙類(独法科)に入学。再び1年で落第(放蕩によるもの)して悠々自適の留年を2年続けた後、チフスに罹って同校を退学する。翌年、今度は慶応義塾大学予科1年に入学したものの半年後には退学。同年マンドリンにとり憑れて東京音楽学校入学を思い立つが果たさず、翌年、京都帝国大学を受験するが失敗。明治45年・大正元年のことである。

以後、本格的な詩作活動に入り、第1詩集『月に吠える』(大正6年)、第2詩集『青猫』(大正12年)と刊行し、その後『純情小曲集』(大正14年)にいたって文語に返る。すなわち「日本回帰」である。定職という定職には就かず、結婚し家族を設けた後も家の仕送りで生活を送っていた。後に家督を相続すると、自己設計にかかる舎宅の建築も思うままに進められる。それでも結婚後の家庭生活は「貧困」であったという(本人弁)。しかし、およそ暮鳥が晩年味わった塗炭の苦しみからみれば雲泥の差である。それに「貧困」と本人は思っていたかもしれないが、当時としてみれば高額な仕送り額だった。かけ離れた生活感覚だった(上述)。

ここに学歴や経歴を書き上げたのは、暮鳥のそれに沿わせたためである。かといって創造行為における制約や予めの範型を見込むからではない。詩的表現の現場は常に解放されている。個人的な事柄で制約されることも型に嵌められることもない。だれでも表現の広場に立てる。立てるだけでなく立ち方も自由である。表現の仕方の自由の前には、個人的な履歴は広場の外にある、一次的関係を保たない外部事項でしかない。作品が自立するための前提である。ただし原則としてである。

それが時に「前提」に思いが至るようになる。前提を前提として成立させているものへの懐疑である。一端疑いを抱くと、通常なら気にかからない広場の外の眼線を感じることになる。促されるように広場の外を振り返る。それまで「広場」(表現の広場)が、日常であり、生活であり、かつ社会であるという、人間関係や社会関係を含む、自己存在と同一であったものの「其処」が、あたかも精神障害者が人や物に抱くような「間」を仲立ちとして、予期しない自己不同を惹起する現場と化していく。もし学歴や経歴に意味があるとしたなら、まさにこの時である。足許を掬われ、広場の外に連れ出される思いに襲われるからである。しかもそれが慕鳥に起こっても朔太郎には起こらない点にこの「自己不同」の深淵がある。朔太郎の詩論を繙けば明らかである。

朔太郎の詩論 詩論に多くの精力を費やした朔太郎であるが(『詩論と感想』『詩の原理』『純正詩論』『詩人の使命』など)、詩人と詩については、たとえばそれを「詩人が詩を思う心は」として、次のように述べるくだりがある。「詩人が詩を思う心は、まことに切々たる熱意(モラル)であり、自己表現への焦燥である」(10詩術(嘘と真実)」(『詩人の使命』「詩の本質について」))と。またそうした焦燥感が「詩精神」であるとすれば、「すべての詩精神は自由を求める。なぜなら詩は感情の表出であり、そして感情するといふことは、日常性の不自由から、心の解放されることの情態だから、すべての詩精神は、本質的に皆リベラリズムに立脚している。そして詩人等のエスプリは、本質的に皆アナーキステックである」(同「2自由と約束」)と綴る。

詩精神とはすなわち詩人の精神でもある。そして詩人を詩精神の発揮に駆り立てるのは、詩に本源的に備わっているものの表現的欲求のためである。あるものとは「美」である。すなわち、「詩の目的は『美』を表現することの外になく、『美』が『一切のもの』なのである」とする。そして、「美」を追求する者としての詩人の存在形態に様々に言及して見せるが、そのなかから「美への追求者」と、本題をそのまま表題としたくだりから一部を引けば次のとおりである。

心の強い痛手を負つた或る詩人が、その生活的打撃にひどく疲れて、作品の書けないことを訴へた時、ゲーテは聰明にもはつきり言つた。その痛手の中に悦びを見、不幸な生活を樂しく變化させることを知らないやうな人間は、眞の詩人とは言い得ないと。眞の詩人は、いかなる場合に於ても人生の魔術師である。彼等は何物をも美化することができるのである。「詩人は彼の最も上機嫌の日に、最も憂鬱厭世の詩を書く」とニイチェが言つたのも、同じ眞理をイロニックに言つたのである。すべての厭世詩人は、その厭世藝術の中に魂の悦樂を所有して居る。厭世詩人が自殺するのは、しまひの自殺だけが蛇足である。(同「5 美への追求者」より、傍線筆者)

最後の1行に傍線を施したのは、いかにもイロニックな一文の付け足しに相応しい、「しまいの自殺だけが」の1行に、かえって朔太郎の詩論が浮かべる、貴族趣味的なデカダンスが嫌らしく顔を覗かせているからである。「詩人にとっての詩」も、結局、その程度である。「美への追求者」たる詩人とは、自殺を蛇足につけ替えられる「詩精神」の体現者であり、かつ条件としているからである。学歴や経歴に制約される詩的表現が、自分に関わることとして発想されるわけがない。そこにあるのは、「自殺」より高い詩精神の横溢した「表現の広場」であり、その広場に高貴に遊ぶ人間の群れだからである。

したがってこの詩想でいけば、「日本回帰」も「自殺」より高いところに位置付くことになる。否、それは朔太郎の修辞法にすぎない、と詰られるかもしれない。でも同じである。修辞法としたこと自体が責められるからである。

かりに『月に吠える』や『青猫』の詩人が、「厭世詩人」だとすれば(まさにそのとおりであるが)、自殺は蛇足であっても「日本回帰」は「美化」の体現となる。どう転がっても場外への退去を求められることはない。広場は郷土(「郷土望景詩」の郷土)となり帰郷者を優しく待ち受けている。「日本回帰」は、当事者の存在形態を完了し、「敗北宣言」さえも美化の一部とする。むし補完する。「敗北」と言いながらも、先行詩集への逆説的な言明にすぎず、先行詩集の秀逸を喧伝するに等しい含みを持たせた言い方に読み取れるからである。詩歴の補完なわけである。

* 唐突ながらアリストテレスは、人にとって詩とはという設問の仕方ではなく、人である故にという問い方で「人間の本性に根ざしている」からである、すなわち詩を作るのであるという。人間の本性とは、再現(模倣)することと再現されたものを喜ぶこととの二つであるという。その二つが「原因」となって「詩作を生む」とする(『詩学』第4章「詩作の起源とその発展について」)。萩原朔太郎の詩論が同様の哲学的な叙述になっていることに、そうした詩論をかなぐり捨てなければならなかった暮鳥との違いとして留意しておかねばならない。その内容とともにそれが可能であった「近代抒情詩人」の精神のあり方を、典型的に体現する哲学的詩論(とりわけ萩原朔太郎の『詩の原理』)それ自体が、暮鳥の「変貌」を前にする限りは「差別化」に起因しているからである。 


「否定」の詩学 暮鳥はそれを「否定」でもって応じたのである。それに経歴を再度辿れば、詩作の開始を誘発した聖三一神学校入学するまでの前後、自殺を三度試みたというのである(「半面自伝」)。身の上を深く悲嘆していた青年は、早く幼少年期から厭世主義者であった。自殺がとうてい蛇足などになるはずがなかった。前提だった。暮鳥にとって「蛇足」とされてしまうような、言ってみれば格下げ扱いにされてしまうような実人生は、自殺未遂だけではなく、その背景であった幼少年期の「人生」を含めてなに一つなかった。優れて経歴を条件(第一条件)とした、人生を要件とする必然性を伴った詩作開始だった。

しかし、実人生を伴った暮鳥の場合であっても、詩作開始の先に待ち構えていたのは、当初の「要件」から切り離されてしまったような、実人生から浮き上がった世界だった。日本近代詩の場合、新体詩として始まった「表現の広場」は、最初からその広場を他者とするプロレタリア詩派(NAPF)以前では、口語自由詩の唱道者を含めて、詩作を始めた人のすべてが等しく参入しなければならない、それ以外には見出せない広場であった。しかも一度参入した限りは、その中の一員としてそのまま留まり続けなければならないのである。

暮鳥もかくして、短歌から転じた詩作開始期からはじまって展開期を迎え、詩壇に一定の地位を得た後も一貫して広場のなかにあり、その中での詩活動であることを前提として詩作に勤しんでいた。そこには文語調も口語調から文語調も、あるいは混淆調も関係なかった。スタイルの別はなかった。

面倒なのは、そこにそうして在ることに強制感がない点である。疑いを容れない、容れようもない了解事項であり、詩人であるべきためには当然に受け止めるべき大前提であった。一種のアンガージュマンだった。引き替えに得られるのは、詩人の生を補強する非日常的な存在感であった。したがって、詩作の展開過程の中に生み出された「否定」も同じだった。「否定」の実感と言っても広場を否定するものなどではなく、精々、広場の片隅に掲げられる毛色の変わった一本のフラッグにすぎなかった。それに誰もが掲げる旗だった。結局、暮鳥もまた朔太郎の周囲にいた。否、留まっていた。自ら唱えないとしても「美への追求者」を彼なりに演じていた。

問題は「否定」の詩学である。「否定」は、高い「美化」のための踏み台だったことで朔太郎の詩学を否定するものではなかったが、朔太郎との違いは、詩歴を補完するものではなかった点である。終に『初稿本 三人の処女』が刊行されなかったことをはじめ、大転換以前に見る詩篇収録の仕方が、一時期の切り捨てに果敢であっても収録の機会とはしなかったことがそれを具体的に物語っている。そしてもう一つの違いは、詩歴の補完が経歴から自由に行なわれていた、つまり純粋に詩歴の範疇であった朔太郎に対して、暮鳥ではそれが「詩歴の否定」の否定であったことである。単なる否定ではなく、否定する自分を否定する「否定の否定」とは、通常なら詩作を辞める方向に向きをとることである。それが辞めない中に決意されたのである。これは矛盾である。矛盾の中に見出されたのが、「ばくれつだん」だった。まったくあたらしい詩想だった。


爆裂の詩想 当初は個々の詩、次は一冊の詩集として炸裂したいたものが、終に詩体に対するそれとなり、終には自身となる。これは詩学ではなく詩想である。否、思想の域である。それも自己革命的な。しかも最後は自爆をもってして炸裂する、対社会との対峙に高められた詩想(思想)である。次の評論は、おそらくその想いの逆説性から発せられた、「詩想(革命的思想)」の自己解説である。

(前略)
誰にでもあるところの詩稟の、またこれほど無いにも等しい時代は嘗てなかつたやうである。
(中略)
現代は天才を認め、その声にきくべくあまりに凡劣で小さな自我主義の多数を以つて標準とする群盲である。自由平等の思想の齎した最も賤しむべき附属物(アツトリビユート)である。
徳川時代の芸術家が人間並の待遇もあたえられずに僧侶や婦人とともに除外されてゐたのは芸術家にとつて此上なき幸ひであつた。彼等はそれだから何等の圧迫もなく不安もなくあの大きな仕事を自己の才能に任せてすることができた。(後略)
――「詩稟」(『小さな穀倉より』「夜話」)(傍線筆者)
 
傍線が求めるのは、近代の矛盾に対する抗議の声(叛意)である。最初から除外されていたなら、それが社会の前提であったなら、「矛盾」は存在しないからである。構造的に成立の余地がないのである。これは、詩人の個人的な立場を超えた、近代に生まれた暮鳥の一般的立場である。歴史的立場でもあるが、当面、暮鳥の叛意が向かう先は、直近の「詩人社会」である。

最初から除外されていたなら――なぜなら暮鳥はその資格=除外される資格を、生い立ちを含めた人生上に有り余るほど所有していたからであるが――中央詩壇との関係で受ける直接間接の「圧迫」や「不安」から自由であり、自由であることが、本来人生と無関係なはずの「詩稟」を無条件に社会的な完了形として個人に保証してくれるからである。言いかえれば「平等」にしてしまうのである。それが最初からの平等ではそうはいかない。貴族関係を胚胎した平等だからである。

一文の本旨はかくして逆説の只中にある。しかし逆説としなければならないのもまた真実である。暮鳥が頻繁にギリシャに言及するのも(「希臘囈術について」「断金詩語」(『小さな穀倉より』大正6年刊)など)、逆説を必要としない、真実だけで成り立つ世界だからだったにちがいない。ちなみにこの文章が書かれたのは、第2詩集『聖三稜玻璃』刊行(大正412月)の翌大正55月の『LE PRISME』第2号のためであった。同雑誌は山村暮鳥が中心的に関わった雑誌である。すでに巷に渦巻く冷笑・嘲笑が耳もとに届いていた頃だった。書かれるべくして書かれた一文である。


敗戦後の詩論 詩史的な問題があるとすれば、このような「否定の否定」の詩想(「思想」)が日本近代詩で可能であったことである。しかも詩想は後付けであって実作が常に先行していたことである。体を張った帰着点だった。観念論ではない。

現象としての暮鳥が日本近代詩に突き付けるのは、文学形式としての詩一般ではなく、日本近代詩と冠せられる、抒情に始まり抒情に終わるような言葉の芸術に対するアンチテーゼである。上記「表現の広場」で言えば、その内側と外側が問われる機会を提起したことであった。

敗戦後になってようやく相対的地点に立つことが可能となる詩論が生まれる。『荒地』を主導した鮎川信夫である。鮎川は、詩人にとっての詩を、「なぜ詩をかくのか」の問いの形でこう述べている(「現代詩とは何か」中の「Ⅳなぜ詩を書くのか」(『荒地詩集』収載))。

また詩は、自己表現の道具だという考え方がある。こうした考え方は、根本的には詩人の個性を重んずる態度であり、芸術に対する快楽主義的なものから感傷主義的なものに至るあらゆる主意的態度を含んでいる。詩は多少とも自己表現であることには違いがないが、あまりこの点を強調すると、個性の末端肥大症に陥る。個性尊重の態度には、自己と他人との相違のみを強調しようとする傾向があり、驚ろかせることとか、奇異なるもののみを追い求めている未熟な詩人の心的傾向を、最も安易に増長させる。それに「書く]ということの根底に、自我という不安定な内面的基準しか持っていないために、その信念と称するものは、極めて流動的であるか、或いは全く何等の信念も持っていない場合が多いのである。われわれが月々読まされる大部分の詩は、この誤れる個性主義の哀れな残骸であり、「自己のために書く」ことの惨めな犠牲なのである。(鮎川信夫1973収載、86頁、傍線筆者)

強引かもしれないが、萩原朔太郎の上掲詩論の一節を、「この点を強調」しすぎた「個人主義」に読み替えることで、暮鳥との違いをより明確に知ることができる。あるいは「表現の広場」の外に終に立てない、本人の選択とは無関係に宿命づけられた立ち位置(すなわち貴族主義を人生の始まりとしなければならない立ち位置)も具体的に明らかとなる。

暮鳥はこの時、直感でかかる「個人主義」(の匂い)を感じ取ったのである。「詩想」の奥底にある自分と相容れない臭覚をである。鮎川信夫が、戦争とその敗戦ではじめて近代人として体得できた「世界の虚しさ」を、暮鳥は「否定の否定」という個人的範囲で知ってしまう。ともに「広場」の外に立っていたのである。結果の共有である。

それでもその後の二人には違いがある。再び「広場」に戻って行く鮎川に対して、暮鳥は入ろうとしなかったのである。鮎川は同じ文章のなかで述べる。ただし、コメントしておくなら、内的には、「世界の虚しさ」を「精神的危機」に捉え直せられる、あらたな発話に向かう余裕を回復している。おそらく暮鳥には訪れることのなかった詩的移行である。

かかる時、僕たちにとって「詩を書く」ということはわれわれの精神の危機に対する正しい感覚を呼び起す。そして絶望の根源である内部症状を、現代の悪を、われわれの精神の暗黒を、正しく切開する。まさに死に至らんとする世紀病を剔抉することによって、「詩を書く」という一つの特権的状態が、現代の荒地に生きるわれわれにとって、実際に必要な生活的意味を持つことになるのである。(同89頁、傍線筆者)


 暮鳥の策略 しかし、暮鳥における「必要な生活的意味」は、「精神の危機に対する正しい感覚を呼び起す」ことには至らず、換言すれば詩作の連続性を再生するには至らず、さらに深い「世界の虚しさ」に生きること(「荒地に生きる」こと)だった。問題は、繰り返せば、そこに(つまり「虚しさ」のなかに)自己にとって詩とはなにかの認識が、ばくれつだんの炸裂によってすべてが失われて灰燼に帰してしまうような、言葉の世界で言えば深い失語症と背中合わせの詩想を生みだすことになったのかである。

我々としては、当然に、それ以前に書かれた前衛詩に遡ってその否定の意味を、詩とはなんであるのかとして問い返さなければならないことになる。おそらく暮鳥は計算尽くだった。分かっていたのである。我々の懐疑や疑念のほどを。一体なんだってそんな詩を書くのだ、なにを考えているのだ、と訝しがることを。しかし、まさにこの点である。それこそが狙いだったのである。仕向けたのである。矮小化して言えば、『聖三稜玻璃』とは形を変えた驚かせ方だった。

ばくれつだんは、投擲先が変えられたのである。かつてのそれが「言葉」に対するものだったとすれば、今回は「存在」に対するものだった。それも自分という存在に向かっての投擲だった。しかし、それが可能だったのも、自爆で済ませるつもりはなかったからである。道連れだった。日本近代詩との。もちろん資格があったからである。そのためにこそ詩歴があった。誰にも超えられない、『聖三稜玻璃』を頂点とした詩歴である。

それを詩論的に捉え直せば、その時の暮鳥の裡にあった「存在」の形が課題となる。日本近代詩に未定形だからである。すでに個々の詩人という固有名詞の上に浮かぶそれではなく、詩人一般という抽象的次元に姿形を変えていたからである。しかも結果だけを受けとって本人のなかでは概念化されているわけではないのである。未定形なる所以である。詩自体も相対化しようとしていたかはさらに重要であるが、転換後の自作に対する言動などを見る限り、詩自体に対してはいまだ確信犯にまでは至っていない。それでも我が身という存在を賭して行なわれた詩歴の断罪(自爆行為)は、十分に、日本近代詩に対するそれになっていたのである。同時代認識になっていなかっただけである。

* 「苦悩者の自分の詩、あれが詩でせうか。あんなものをかいてゐるうちは暮鳥もだめです。けれどあれがたいへん人々の同情をひいたのにはおどろいた。人々は冷静に詩としてみてくれないのだ、詩でないからいいやうなものの、あの盛り上がり上がりするリズムの感動をうけないのだ。でもあんなものが一体詩でせうか。私にはもつともつと偉大な仕事の出来る素質が、人間の誰もと一しょにある。/けれど日本にはあれだけのものですらなかつた、なさけないと思ふ。(後略)」(大正826日、花岡謙二宛はがき)。「苦悩者の自分の詩」とは、雑誌『苦悩者』第五号(大正82月)の劈頭を飾る、長編詩「真実にいきようとするもの」のこと。後に第4詩集『梢の巣にて』(大正105月)で巻末を飾る長編2詩の一つとして収録される。同誌は暮鳥主宰で大正710月創刊(大正812月までに13号を発刊)。

「たいへん人々の同情をひいたのにはおどろいた」とは、同作品に深く感動した有島武郎から「おもわず涙を流してしまいました」という篤い賛辞が送って寄こされたことである。照れ隠しもあったにちがいない。3日後の同じ花岡謙二宛の書簡(大正829日)には、今度は賛辞者の実名を上げて「有島武郎氏が苦悩者の詩に感奮して泣いたと大へんな推讃な手紙をくれました。私はミケランジヱロの拙劣を、あの拙劣の偉大をめがけてゐます。あれ以上になつたら満足です。」(部分)と綴る。いずれにしても「ミケランジヱロの拙劣」が、変換後を支えていた詩論の一端を窺わせている。それでもあえて「拙劣」という形容をする。「あんなものがいつたい詩でせうか。」という忸怩たる思いが、思わず顔を出したということであろう。根の深い問題であるが、ここではこれ以上問えない。転換後の変質した詩篇を作品論として扱っていないからである。


原罪としての「抒情」 「抒情」によって成り立っていた日本近代詩は、暮鳥によって二重に断罪されたのである。言葉(詩)とともに詩人として、その両者として。暮鳥の転換(変貌)をあざ笑っても同時代及びその後の詩人(戦前)たちが我が身を疑うことはない。それ以前に疑い方を知らない。詩が其処にあることが前提になっている。それに高い教養は、詩の存在論に対しても百万弁を費やすことができる。暮鳥に言われずとも「詩を書くとは」とか「詩人とは」とか、本質論の開陳にも余念がない。自己否定も厭わない。それでもそれが詩人としての我が身のさらなる安泰であることは真剣に考えない。向き合わない。向き合えば、詩人たることを放棄しなければならない。

それらを合わせ、実は「抒情」の範囲なのである。暮鳥は、その悲惨な生い立ちにはじまり、後に神学校入学の幸運に恵まれるとしても、尋常小学校高等科中退という近代の「平等」には十分不足する学歴と近代的学歴がつくりだす社会的条件を第一要因として――それというのも自由詩社の同人が大学生を中心にしていたこと、次の人魚詩社では同郷者(朔太郎)を同人としていたことが、自己凝視の機会を繰返し彼に付与し続けていたはずだからであるが――近代社会が往々にして突き付ける「貴族的格差」を生きることによって、図らずもこの「抒情」への反逆を実践してしまっていたのである。自分の登場が早すぎたというなら(暮鳥による『聖三稜玻璃』「解説」)、『聖三稜玻璃』以上に早すぎたのは、この「変貌」である。準備もなく一気に「抒情」の先に打って出てしまったからである。

それでもそれを達成感とし、達成感を目的として後は達観的に現状にとどまっていたことは、あらたな詩論的批判に晒されなければならないことであった。とくに「あんなものがいつたい詩でせうか」の自戒的省察は、あらたな「否定」を厭わずに深められるべきであった。半ば自身でも気づいていたからである。

しかし、暮鳥も一人の人間である。達成感まで奪い取ってしまったなら、ただでさえ明日の糧にも困る追い詰められたぎりぎりの精神状態は、不治の病に冒された肉体より先に崩壊してしまったことだろう。最後の詩集『雲』(ただし没後発刊)は、精神の保全としても必要なものだった。いまはそれでよしとすべきだろう。それに「抒情」の先に打って出てしまった問題は、周到な準備(抒情詩論の展開**)から入らなければならない。然るべく改稿して論ずるべき問題である。

以上によって筆を擱くが、いずれにしても朔太郎の「回帰」も犀星の「不変不易」も、すべからく「抒情」の裡にあり、最初から「抒情」に完了する仕組みであった。保護柵でもあった。それが「抒情」だった。そしてなによりも「特権」だった。朔太郎は、理論家としてもまた抒情の第一人者だった。一方非理論家の犀星は、最晩年の作品編集(『室生犀星全詩集』筑摩書房、1962年)に当たっての「解説」(『室生犀星全詩集』「解説」)でいみじくもこう述べている(摘記)。誰に向かって述べているわけでもない。自分一人のためである。それはそれで屈折した「特権」である。それが却って、暮鳥の悲哀を浮かび上がらせる。複雑な気分である。

(前略)私の(もっと)も間違なかたことは詩は抒情詩のほかには、一さい手を付けなかたことであらう。私が何等かの思想といふ至難なものに(おび)やかされなかつたことは、何時(いつ)も何物かの思想を発見出来ない(しあは)せを持ち合わせてゐたからであらう。

(前略)本全集編集にはやはり抒情詩が主体であることは、私の詩集が(ことごと)く抒情詩以外は書かなかたことに原因てゐる。最後まで抒情世界からなかつたことは、今日にはせめてもの()どころであて、この点で私に過失はなかつたことを再記したい。(室生犀星1977収載、290頁、傍線筆者)
 
一方、暮鳥は、『雲』(大正13年)の「序」でこう語っている。本稿の最後を同文(摘記)で飾ってもらうことにする。一文を閉じるに相応しい〝嘆詠〟だからである。

(前略)
ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。
(中略)
詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。

だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。

詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。

善い詩人は詩をかざらず。
まことの農夫は田に溺れず。

これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
なんといはう。実に、田の田である。詩の詩である。
(中略)
何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互い、精進々々の事。
                                   茨城県イソハマにて
                                          山 村 暮 鳥
 
大正13128日、詩集の刊行を見ないまま暮鳥は没する。享年41歳。翌年の大正14125日に刊行された『雲』の序は、まさに遺言であった。「お互い、精進々々の事」は、幼少期から病臥の床にある現下の自分自身を含む、はからずも早く生まれ過ぎてしまった全生涯を前にして、すぐにも閉じられようとしている生の後日に向かって呼びかけられた意志(遺志)だった。朔太郎とは違うイロニックな発声だった。 

 * 鮎川信夫の言を承けての〝断定〟である。「朔太郎は『詩の本質は抒情である』と考えた詩人の第一人者であり、(略)朔太郎は『詩が本質する精神は、感情の意味によって訴へられたる、現存しないものへの憧憬である』と言っております」(同1975(初出1948))のとおりである。引かれた言は、朔太郎を代表する詩論『詩の原理』中の「第九章 詩の本質」である。

** 当面、敗戦直後にこの問題を集中的に論じた鮎川信夫を足掛かりとすることになろう。「抒情詩のためのノート(1948)「近代的抒情の性格」(1951)「近代的抒情について」(1951)など。


おわりに~詩人の困難~
あらためて思うのは詩人である。詩人として自己解放されることの難しさである。とくに難しくなったのは(してしまったのは)、北村透谷からである。しかし透谷は困難さを早く自死に転化してしまう。島崎藤村はほどなくして散文(小説)に転じた。困難がそうさせたからとは思えない。譬えが適当でないかもしれないが、新体詩人として嘱望されながら民俗学に転じた松岡国男(柳田国男)を思い出してしまう。その柳田は後年対談中で思い出すのも嫌だと言っている。ともに詩人の困難とは性質の違うものである。

石川啄木は、生が繋がっていれば、あたらしい詩境を切り拓いたかもしれない。詩(歌)の困難と生活の困難(困窮)があまりに重なり過ぎていた。北原白秋の困難は、詩人の困難というより言葉の困難であった。詩だけでなくそれ以上に歌・童謡・民謡で豊かに生きられた。

もっとも境遇が近かった室生犀星の生き方は、詩史からみても特殊だった。「詩人の困難」など意味がないかのようである。詩だけでなく小説があったからか、小説がなかったならどうなっていたのか、関心は尽きない。それを含めて「私が何等かの思想といふ至難なものに脅やかされなかつたことは、何時も何物かの思想を発見出来ない倖せを持ち合わせてゐたからであらう」と逆説めいたことを言うのは、詩人の困難を見据えてのことではなかったか。一時同人であった暮鳥は、危険文士に映っていたにちがいない。

あらためて山村暮鳥が、詩人の存在として、そのように生まれ、育ち、歩み、生涯の詩人を生きることが可能であったかが疑われる。それが個人の範囲だけでは足りない感じである。疑う点である。唐突ながらそれが上州だったからではないかと思われてしまう。疑念を故郷に被せたくなってしまうのである。郷土が詩人を誕生させたのではないかと。偶然にしては輩出詩人の数が多すぎるのである。たとえ外形論だとしても。

新体詩を「詩」に近づけた湯浅半月(『十二の石塚』)は安中宿(現安中市)、稀なる香気を自分一人の体内に摂り入れて事足りていた大手拓次(『藍色の蟇』)。彼は磯部温泉(現安中市)の生まれである。果敢に詩行を走破してアバンギャルドを地で行った萩原恭次郎。彼は勢多郡南橘村(現前橋市)の生まれである。そして暮鳥(現高崎市)と朔太郎(現前橋市)である。
藤村に馬籠があり白秋の柳川があるとしたなら、上州の彼らには一次的な郷土などあっただろうか。情緒の源泉に関することである。不思議な風土だからである。それを文学史で試したい思いに誘われるのである

暮鳥の生地辺りは幾度か歩いたことがある。安中も前橋も歩いた。安中は少し違うかもしれないが、高崎・前橋いずれの地にも「詩」を彷彿するものがない。誤解を招く言い方である。僕らの、否、僕と言い換えるべきだが、詩に対する、あるいは詩人に対するイメージが浮かび上がってこないのである。これではまるでマイナスイメージである。違う。カオスが占めているためである。イメージ以前の問題である。

こうして暮鳥を辿る時、暮鳥の困難が、其処で詩を予感したことに始まったように感じられてならない。其処とは、地名を持った土地というよりは、それを含めてカオスの渦中にある「指示代名詞」としてのそれである。期せずして「混沌」のもとに生まれ落ちていたと知る時、それを誰よりも強く引き受けていたのが暮鳥であったことになる。どうも暮鳥は最初から困難と縁が人一倍深かった模様である。「詩人の困難」は、ほとんど運命だった。日本近代詩が運命としないだけであった。

* 二人の女性詩人(小説家)が後押ししてくれるのである。長澤延子(桐生市)と金井美恵子(高崎市)である。ただし桐生市はまた別な地靈を宿している。


テキスト
『山村暮鳥全集』第1~第4巻、筑摩書房、198990

引用・参考文献
鮎川信夫「現代詩とは何か」(『鮎川信夫著作集』第2巻、詩論Ⅰ、思潮社、1973年、初出1951年)
鮎川信夫「現代詩の分析」(『鮎川信夫著作集』第3巻、詩論Ⅱ、思潮社、1975年、初出1951年)
アリストテレース/松本仁助・岡 道男訳「詩学」(『アリストテーレス詩学・ホラーティウス詩論』岩波文庫、1997年)
大岡 信「大正詩序説」(同著『蕩児の家系――日本現代詩の歩み』思潮社、1969年)
大岡 信「山村暮鳥――泥まみれ豚と()の噴水」(同著『明治・大正・昭和の詩人たち』新潮社、1977年)
北川 透「山村暮鳥という〈ばくれつだん〉」(同著『萩原朔太郎〈言語革命〉論』筑摩書
房、1995年)
関川左木夫『ボオドレエル・暮鳥・朔太郎の詩法系列』昭和出版、1982
田中清光『山村暮鳥』筑摩書房、1988
中村不二夫『山村暮鳥―聖職者詩人』沖積舎、2006
萩原朔太郎『詩人の使命』(『萩原朔太郎全集』第4巻、新潮社、1960年、初出1937年)
日夏耿之介『改訂増補 明治大正詩史』巻之下 創元社、1949
室生犀星「『室生犀星全詩集』解説」(『室生犀星』日本詩人全集15、新潮社、1967年、初出1962年)
山村 静「山村暮鳥・人と作品」「解説」(『木下杢太郎・山村暮鳥・日夏耿之介』日本詩人全集13、新潮社、1968年)
和田義昭『山村暮鳥研究』豊島書房、1969
    『山村暮鳥と萩原朔太郎』笠間書院、1976