2014年1月31日金曜日

[な] 中原中也の詩~日本語を超えた「日本語」~

 

 1 中也詩を読む「詩史論」的前提

 
白秋詩と言葉 和歌・俳句や漢詩に永い歴史を有する日本文学史が、それ等とは表現形式を異にする新体詩を生み出して以来、その表現形式のなかに追い求めてきたのは、言葉との新鮮な出会いであった。それが奇を衒っただけとさんざんに貶められた当時(明治中期)の酷評にもめげず、『新体詩抄』からやがて藤村の『若菜集』を生み出し、薄田泣菫や蒲原有明等の象徴詩を経て、北原白秋の詩に絢爛とした言語世界を結実することになった。その言葉の芸術は、紛うことなき極点の示現であった。

しかし、彼の為したる頂点とは何であったのか。言語芸術の頂点であったとするならば、その偉大さに反して先に続かなかったのは、到達点が高すぎたからなのか。高すぎたとするなら、それは白秋に対する否定因を含意する言として読み替えるべきなのか。まさに然り。彼の高すぎた点とは、彼の資質(詩人性)を彼の外に派生させる方向に作用し、彼自身を離れる内部力学であったからである。白秋が歌人である時、この問題は起こらない。むしろ彼を救う。それはそれで別な問題(詩の必然性に対する疑問)を惹起するとしても、言葉の言語論的な問題に常に身を晒し続けなければならない詩的営為(自己否定的営為)からは回避される。

 言葉が先にあるのか、彼自身が先あるのか。言葉が先にあった白秋詩とは、その作品(詩作品)が言語芸術の頂点を極めただけに、言葉と人との関係を、なにが表現されたのか、自分を離れるような表現にはたして意味があったのか、それとも一度は全ったき思いに達していたのか、などの真っ先に内面感にたち返る言語的達成を問うよりは、そもそも最初に立ち返る先が内面感でよいのかが疑われることになる。それは丁度、古代歌謡を前にして、まずわれわれの心に訴えかけてくるのが、連なる言葉の調べであるのに似ている。その言語的刺激を超えて最初から作者の実存的姿が真正面に立ち顕れることはないからである。かといってこれが歌の限界などというつもりなない。白秋詩に対しても同じである。

実は白秋詩的な言語的刺激が先に立つ在り方は、歌の発生当時に遡って最初に意味のあることであったはずで、内面感は作歌的動機を構成することがあっても、作歌的行為に優先する具体的契機として機能していたわけではない。別に哲学的議論を必要とするほどではないにしても、これは心と言葉の問題である。作歌行為を主導していたものがなにかという創造的な議論である。これが求められるのは、歌と詩の岐路の問題だからでもある。

この岐路の先には、後続を断つ形で極点に立った白秋詩の構造上の問題も横たわっている。心によって詠ったのではなく、言葉によって詠ったのが短歌で、しかも詠わされたこと自体が、必ずしも心(作歌的動機)に問い質されあるいは検証に晒される必要がなく、すべてに優先するものが作歌的レトリックで、その作為的な言語組成の連環内に、そのつど新規に再生的な瞬間を思い描くことができるとすれば、白秋詩の極限的な言語感とその緊張感は、そのレトリックを詩体に移すことに惹き起される、位相差に生じる呻吟である。あるいは内部崩壊的な感覚を「音」にしたものである。しかし「音」であったものは、まさにその音のためにさらに言葉の意味論を離れる方向に言葉を組成しなければならない。

白秋詩の極限とは、それまで三十一文字に代表される伝統的なレトリックによって保証されていた、あるいはそれとともに根底を失うことのなかった日本語措辞による心の姿形を、終にその体系の外に見離してしまったことによる傷心でもある。その傷心が、童謡に転化し再生する様をどのように眺め見ればよいのか、童心の最中にも真実があるとしても、それだけでは「近代」を生きていけない。

白秋詩に学ばなければならないのは、いったん外に見離された心が、童心に寄り添ってそれ以上を求めない潔いまでの態度に憑依して、存外、内面性を高い完結性で開示している点である。そして、童心の真実を純心から傷心に置換できる白秋詩のレトリックを突き付けられる時、我々はそのレトリックを頭から否定するしか、彼の完結性から逃れる術を知らなかった点である。口語自由詩の挑戦である。

 
中也詩への序奏 しかし白秋詩に対する否定的態度を含めて、高らかに掲げられたアンチテーゼといえ、既存からは自由になれない。むしろ既存を前提にしてはじめて成り立つ一つの態度(決意)でもある。それというのも、その前提が時に否定から肯定に転じる時、否定の否定となることから回帰となるからである。たとえば口語自由詩の巨星詩人の回帰で分かったことは、否定と思われていたものが実は否定ではなかったことである。心を外に置いた白秋詩的な在り方(あくまでも文脈上に言い回しだが)とは、結局のところ構造的な違いがなかったのである。つまり口語を採ることも自由詩の形式に拠ることも、外形内のことでしかなかった。心と言葉との関係は、言葉が先に立つ仕組み(ひとまず「韻文の仕組み」)を変えられなかったのである。口語に拠ったからといえ、事態に変化はなかった。口語自由詩の非近代的側面である。

 詩という文学形式は、言語(ここでは日本語)の機能によって支えられていた、社会的存在である人の外側と内側に関する認識、およびその認識の安定に対して不安要因としてたち顕れる。今必要上、詩を原理的に捉えると、この場合不安要因が一次的に問いを形成しない点が特徴であり、それが他の文学形式に対して詩が占有的にとるレトリックでもある。問いとは、人間存在の日常に発するものであっても非日常に起因するものではなく、形態的には散文として成立しているからである。したがって、それ自体として常に結果としてしか立ち顕れてこない、詩の原理と一体の不定要因から問いを立てることはできない。そのままでは内圧に抗し切れない。自然と韻文に向かうのである。韻文は問いではない。結果である。結果のみに発話する言語である。発すること自体に完了形が準備されているのである。

最初から結果であるとは、再び原理論になってしまうが、原因と結果との関係ではないということである。散文的一般に推し量れるように、両者のなかで人格を形成し、人生論を身に付けていく在り方の向こうで、一方でしかない在り方に取り付かれた個性が、その偏在性によって個人的な存立を脅かされ続けるとすれば、彼が存立の脅威に見出すのは、脅威そのものではなく、脅威を見出せないことそれ自体に対する、最初から答えの前には立たされることのない苛立ちである。

彼にとって詩が必要であったのは、それが表現である以前にまず「認識」だったからである。我々が通常同様の認識を必要とする典型的な局面は、死に対した局面である。この時、全ての人は詩人になる。ならざるを得ないというべきか。詩人であることが認識と同体だからである。言葉だけでは救われないのである。詩人であるとは、あるいは認識であるとは、悲しみを言い表せない言葉以前に還ることである。還ることに発声(慟哭)することである。

この時、それを存在論にまで高めたのが「彼」である。彼とは中原中也である。したがって中也詩を読むとは、以上に従えば「認識」を読むことにほかならない。「認識」の前には文語も口語も定型詩形も自由詩形もない。すでに「認識」を意識した時から彼にとって言葉は、一義的に彼を規定するものではなくなっていた。彼が、白秋詩や回帰者の口語自由詩とはまるで原理を異にして日本語の画期となっていくはじまりである。

 
 2 中原中也の詩――詩作法としての詩読態度

 中也詩と詩読論 以下に中原中也の詩を読んでいきたい。生前刊行されたのは、『山羊の歌』(1934年(昭和9))と『在りし日の歌』(1937年)の2冊である。ただし、第一詩集は印刷から刊行までは、出版社がつかなかった関係で2年の歳月を要している。また第二詩集の刊行は亡くなった翌年である。没後刊行ではあったが編集完了後である。30歳の生涯の間に為した多数の詩篇は、没後、「未刊詩篇」として整理され全集に全体が掲載されている。

ここに取り上げるのは、文脈的には「認識」の状態を確かめるためのもので、必ずしも作品水準を重んじたものではない。さらに読み方としても自由な鑑賞法ではない。むしろ後述するようにその態度(詩読法)は反鑑賞的である。


    蛙 聲

 
  天は地を蓋ひ
  1そして、地には偶々池がある。
  その池で今夜2一と夜さ蛙は鳴く……
  3――あれは4何を鳴いてるのであらう?

  その聲は、空より5來たり
空へと6去るのであらう
天は地を蓋ひ、
  そして蛙聲は水面に走る。

  7よし此の地方(くに)潤に過ぎるとしても、
  疲れたる我らが心のためには、
  柱は(なお)、余りにいたものと8(おも)はれ

  頭は重く、肩は凝る9のだ
  10さて、それなのに夜が來れば蛙は鳴き、
  bその聲は水面に走つて暗雲に迫る。

 第二詩集『在りし日の歌』の巻末詩である。反鑑賞的な読み方とは、微に入り細を穿つによろしく意図的に細部に拘るからである。その場合でも拘るのは、一語一句の意味ではない。作られ方(語られ方)である。分析態度としては、楽曲分析に範を採るような在り方かもしれない。同じ様にはいかないが、視角としては詩語や詩句をあたかも譜面上の音符に見立てる分析法である。

 まず詩体。14行詩(ソネット)である。中也詩の詩体は幾つかに別れるが、ソネット(4433)は代表的な詩形式である。詩人を内面に決意した時の詩として知られている「悲しき朝」(1929年(昭和4))もソネットである。詩人の体内音を組成する形式である。ソネットといえば、同時代の立原道造が拠った詩形式としてひろく知られているがが、中也にも親和的な詩体である。同詩形の定型的な詩行が創るリズム感や、無理のない息継ぎに見合った長さ(紙幅)が、詩人の「思考」に誘発的なのである。

 ひとまず分析点は、1~7にわたる。1「そして」をチェックするのは、散文体的であるからである。添えられた読点が企図するのは、さらにそれを音節的に口語口調で区切らせようとする確信犯的態度の表明である。単に意表を衝くだけのことなら小手先のごまかしにすぎないが、2の文語で打ち消し合って、さらに3の口語散文体でもとに戻すからである。言葉の対極的使い方は、中也詩の常套手段で、文語や口語の「声」を自在に使い分けては時空間に対して偏向的に働きかけるが、ここでは時空間が「天(空)」と「池」/「蛙」に設定されていることから、散文体による頭出しは効果的である。3の「あれは、」は1の技法的リフレイン。4の口語散文体による傍観者的な疑問形は、以下の各聯による反発を意図的に誘発するため。

 56は、同じ対極技法ながらいささか漢語的な語感振幅で第1聯とは声調を変えて、aを導きだす。次ぎの3行構成の聯(第34聯)を前にして一度収束してみせるのである。「そして」もその後を受ける格助詞「に」の変則的使用によって(「そして」を使う限りは「を」)、すでに口語散文体の世界を離れ、離反したことで第1聯を引き寄せて計2聯からなる8行詩の厚みに構築的に参画する。

 後半の33行の場合、第3聯の頭出し(7「よし」)は、前段4行聯への反語的態度で、とりわけ「そして」「あれは」に呼びかけて時制的に対峙する。8の造語的な使い方は、言語感覚としても機能的であるが、それ以上に聯の外に向かう連鎖構造としてより機能的である。すなわち9の「のだ」の口語散文体(俗語的な断定調)との間でつくる落差の大きい言語感である。しかも10の「さて、それなのに」のように逆接の前提条件で切り返することで詩行の運行に弾みをつける。そして抑揚感を手中にして、最終行に詩篇の素因であった「聲」「水面」「に」「走つて」を点綴しなおしながら、唐突に未知未見の「暗雲」を掲げて全体を暗示的に閉じる。

 
譜面読みとしての詩読 こうして一語・一句・一行に拘り続けて巧妙さを納得したとしても、それが、詩的刺激にとってプラスに作用するわけではない。かえって気分は解体的で興醒めにさえなりかねない。分析的な態度に拠らず流すようにして読む。最初から整理されている調べは、調べだけで意味機能をも揺り動かす。心地良く動揺した気分は、知らぬ間に理知的に再編・再構築されている。したがって分割してはならないのである。

 矛盾したようなことを言うのは、しかし上記したようにこれを譜面読みとすれば、事情が異なるからである。たしかに音楽的評論には譜面分析は欠かせない。評論でなくても同じ楽曲をさらに深く聴きたいなら目を使うべきである。たとえ門外漢のスコア読みであれ、一度目を通した音は、あれほどに知っていた音であってもより深く聴こえてくるのである。それは演奏の聴き比べ(名盤聴き比べ)とは異なった味わいでもある。目(視覚力)の働きである。すでに同じ耳(聴覚力)ではなくなっているのである。

 ただし詩の場合、ただちに同じ効果がもたらされるわけではない。一義的にはやはり逆効果である。それを譜面読み法に擬えるのは、中也詩の、詩の根源と交錯する奥深さ故である。むしろ中也を読むとは、その作品としての味わいとともに、言葉体験をなぞることでもある。味わいは分割できないが、なぞりはむしろ分割によって体感的に実感される。一語一句の体感では程度も知れているが、蓄積していくと次第に言葉が未知の機能面で読み替えられていく。口語と文語、散文と韻文、和文と漢文、順接と逆接などの対立関係に新生面が開かれる。既存のレトリックが先導する言葉の世界とは一義的に異なる言語論的回帰である。イズム(たとえばダダイズム)による恣意的な操作などでもない。詩が詩としての表現形式を通じて、自からの側にコトバを組み換え、かつ組み換えを体系的に日本語の上に実現することである。その言葉体験こそが中也詩そのものであり、譜面読み的な読み方とは、言語体験的なものの二次再現である。

新たな日本語体験 今度は聯を分かたない詩体から一篇を取上げてみたい。同様に『在りし日の歌』中の作品である。

    初夏の夜

  1また今年(こんねん)も夏がて、
  夜は、蒸氣できた白熊が、
  沼をわたつてやつてくる。
  2――色々のことがあつたんです。
  色々のことをして來たもの3です
  嬉しいことも、あつたの4です5
  回想されては、すべてがかなしい
  鐡製の、軋音さながら
  6なべては夕暮迫るけはひに
  幼年も、老年も、青年も壯年も、
  共々に餘りに可憐な聲7をばあげて、
  薄暮の中で舞う蛾の下で
  8はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。
  9されば今夜(こんや)六月の良夜(あたらよ)なりとは10いへ
  遠いい物音が、心地よく風に送られて來るとは11いへ
  12なにがなし悲しい思ひであるのは、
  消えたばかしの鐡橋の響音、
  大河(おおかは)の、その橋の上方に、13空はぼんやりと石盤色であるのです。

 18行の単一聯である。息継ぎを意図的に排するが、28の行で発声法を変えているので、大きくは3つのパートからなる。3行目の「くる」のとおり最初は記述体で、次ぎに「です」で話し言葉に反転して、さらに34とで「です」を重畳して語り物風に寛がせるが、5の「が」によって覆し、「すべてがかなしい」にそのまま落とし込む。この記述体の4行は、本来独立した詩行であるが、「かなしい」に句点は付されない。前駆的機能を持たされたものである。しかも、目に見えない形で転調して後続に転回していく対位法的効果が企図されている。

さらに次ぎの「鐡製の、軋音さながら」も同様に前駆的(前句的)である。あくまでも6の「なべては」で一気にセットアップさせるためである。屈折気味に添えられた7の「をば」であるが、同音(硬質音)で6の「なべては」を受ける。同時に9の「されば」の予告音ともなっている。ここに来て、聯に分たないことがさらに効果を高める。用意周到にしてクライマックスが迎えられようとしている。同じ重畳でも今度は綴り言葉で「いへ」(1011)と重ね、「なにがなし」(12)と文語で修飾句を拵えて、反転気味に「いへ」もを文語調に響かせ、「悲しい思いであるのは」にアンテークな余韻を添える。その結果、13の「空はぼんやりと石盤色であるのです。」が、果敢に時間的断絶に語りかけてくるところとなる。

この詩篇からもたらされるメッセージには、世界や時間、その秩序に対する確信的な言葉体験があり、その試行への宣告者然とした戦士性が感じられる。言葉体験という体験自体が詩である世界、それは詩の前提条件であり特権行為の範囲でもあるが、それが新たな日本語体験へ体系的に移行するのには、中也を待たなければならかった。中也とは詩の必然そのものだからである。

 
新しいトーン もうすこし作品を探索してみよう。掲げるのは、輪唱風のリフレインによる内韻律との対話篇ともいうべき一篇である。

  お天氣の日の、海の沖は
  なんと、あんなに綺麗なんだ!
  お天氣の日の、海の沖は、
  まるで、金や、銀ではないか

  金や銀の沖の波に、
  ひかれひかれて、岬の端に
  やつて來たれど金や銀は
  なおもとほのき、沖で光つた。

  岬の端には煉瓦工場が、
  工場の庭には煉瓦干されて
  煉瓦干されて赫々してゐた
  しかも工場は、音とてなかつた

  煉瓦工場に、腰をば据ゑて、
  私は暫く煙草を吹かした
  煙草吹かしてぼんやりしてると、
  沖の方では波が鳴つてた

  沖の方では波が鳴らうと
  私はかまはずぼんやりしてゐた
  ぼんやりしてると頭も胸も
  ボカポカポカポカ暖かだつた

  ボカポカポカポカ暖かだつたよ
  岬の工場は春の陽をうけ、
  煉瓦工場は音とてもなく
  裏の木立で鳥が啼いてた

  鳥が鳴いても煉瓦工場は、
  ビクともしないでジッとしてゐた
  鳥が啼いても煉瓦工場の、
  窓の硝子は陽をうけてゐた

  窓の硝子は陽をうけてても
  ちつとも暖かさうではなかつた
  春のはじめのお天気の日の
  岬の端の煉瓦工場よ!

 『在りし日の歌』収載詩である「思い出」の前半部である。この前半部8聯に後掲のように6聯の後半部がつく。手法的には後半部も概ね同巧であるが、輪唱は抑え気味で、かわりに変奏曲風に細部に微妙な変化をつける。また特定名詞の重畳化(「煉瓦工場」)が前半部(「金と銀」「岬の端」)以上に頻度を高め、繁く同音ないし同音節を聴かせようとする。すなわち「木立の前」と「木立の鳥」、「沖の波」と「庭の土」、「雨の降る日」と「晴れた日」の並立である。これらはとかく言葉遊びに流れやすいが、あえて小手先に頼って単なる言葉遊びに流れるのを踏み留め、かえってぎりぎりのところで新しいトーンを聴きとろうとする。中也に最初から備わっていたものであるが、前半で切り上げず後半を添えたことで従前にない深まった抒情に流れる音律にはやはり新しさがある。最後の2聯が転調気味であるのが、さらに緊張感の創生に効果的である。以下後半部を掲げて、次ぎに移る。

  煉瓦工場は、その後(すた)れて
  煉瓦工場は、死んでしまつた
  煉瓦工場の、窓も硝子も、
  今は毀れてゐようといふもの
 
  煉瓦工場は、(すた)れて枯れて
  木立の前に、今もぼんやり
  木立に鳥は、今も啼くけど
  煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ

  沖の波は、今も鳴るけど
  庭の土には、陽が照るけれど
  煉瓦工場に、人夫は來ない
  煉瓦工場に、僕も行かない

  嘗て煙を、吐いてた煙突も、
  今はぶきみに、たゞ立つてゐる
  雨の降る日は、殊にもぶきみ
  晴れた日だとて、相当ぶきみ

  相当ぶきみな、煙突でさへ
  今ぢやどうさへ、手出しも出來ず
  この厖大な、古強者が
  時々恨む、その眼は怖い

  その眼怖くて、今日も僕は
  濱へ出て來て、石に腰掛け
  ぼんやり俯き、案じてゐれば
僕の胸さえ、波を打つのだ



  「中原中也論」という「詩論」

 中也の履歴事項 中原中也の人生は、伝記や評伝によって人一倍大きく膨らまされている。しかし立ち入ってみればすぐ分かるように、他と比べてとりわけて特別なわけではない。ここでは本人の外で構築された詩人像に触れることとする。中也詩の評が偏向気味であるからである。

まず、30年間に亘る人生の内、彼の人生の内面感に関与する主な履歴事項を書き上げてみる。

①中学校(山口中学校)を落第し転校(立命館中学校)たこと(16歳)、②若くに同棲経験(長谷川泰子)をもったこと(17歳)、③その女性に去られたこと(友人小林秀雄に奪われたこと)(18歳)、④父謙助を亡くしたこと(21歳)、⑤元愛人(②③)の名付親になったこと(23歳)、⑥弟恰三を亡くしたこと(24歳)、⑦遠縁の女性(上野孝子)と結婚したこと(26歳)、⑧長男文也が誕生したこと(27歳)、⑨文也が夭折したこと(29歳)、⑩精神科の療養院に一時(1週間)入院したこと(30歳)。

上記の内、あえて個人性の強い履歴を掲げるとすれば、②と⑩くらいであるが、⑩は入院期間からも知られるように、年譜上精神に変調を来したと記されても、軽い心身耕弱程度である。ほかは程度の差はあれ、特定の個人に特化されるものではない。もちろん外形的な履歴事項だけでは決められない。履歴に現れない日常のことであっても、それが深刻なこともある。むしろそれが平凡なことだけに、逆に些細なことにかかずらう神経質な精神が心身を蝕むようになることもある。しかしこれも程度の差あれ普遍的な範囲である。しかし、中也には取り立てて書き上げられる偏執的なものも妄想的なものも見当たらない。

中也評の偏向者たち それにもかかわらず中也の生活は、拡大鏡で覗き見るように大写しで写し出されてしまう。なぜか、それは語る人自体に問題があるからである。評者自身が拡大鏡化してしまっているのである。一家をなした大家揃いである。その名声によって読み側が最初からバージョンアップされた中也評にしてしまっているのである。

小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平のご面々である。詩人に対する人間論的探求は、彼の交友関係を検討事項に載せ、友人たちの人物像を問う。本来、三人は問われる側の立場であっても、自らが先に立って真相を暴きたてる主体的な立場の側にはない。もちろん、彼ら三人や富永太郎ほかとの交友を影響論として説いた、オーソドックスな中也論も少なくない。むしろ三人が「普通人」でない分だけ、論じられる分量は他の詩人論をはるかに凌いでいる。しかし、その場合でも三人が著わしたものは、中也論の前提である。とりわけ大岡昇平のそれ(『中原中也』)は、基本文献の一冊に位置付く。状況は変わらない。

 要は一般論ではなくなってしまっていることである。それが、中也詩を必要以上に存在論的な詩に持ち上げてしまうのである。ここで問題なのは、結果ではなく過程である。それが本来一般論を出ないはずの過程(①~⑩)を飛び越えて、「結果」(深い人生)が先行的に抽出されてしまうことである。彼ら(ここでは取り上げないが、とくに大岡昇平)による自分探しとして語られるからである。自然、最初から必要以上の高さに立たされてしまうことになる。大家である彼らの存在が高いからである。

 
先行的な中也評 しかし、交友時代の彼等は一介の文学青年にすぎない。それも修学中である。そして中也は彼ら(小林秀雄・河上徹太郎(ともに5歳上))が、将来の大家を約束する以前に夭折したのである。二人は中也の存命中に気鋭の文芸・芸術論者となっていく点では、必ずしも「一般人」でしかないかもしれないが、すくなくとも出会いの当初や文学活動(同人雑誌『白痴群』)を友にした段階では、「文学青年一般」であった。2歳下の大岡昇平は「一般学徒」でしかない。三人は、やはり伝記中の一駒に連れ戻されるべきである。彼らによる自分探しは、いくら中也を前面に押し立てたとしも、中也個人とは直接関係のない、むしろ彼らの世間に認知された文学性で底上げされた、ある意味虚像とならざるをえない。たとえば小林秀雄の次のくだり。

  彼の詩は、彼の生活に密着していた、痛ましい程。笑おうとして彼の笑いが歪んだそのままの形で、歌おうとして詩は歪んだ。これは詩人の創り出した調和ではない。中原は、言わば人生に衝突する様に、詩にも衝突した詩人であった。彼は詩人というより寧ろ告白者だ。彼はヴェルレエヌを愛していたが、ヴェルレエヌが、何を置いても先ず音楽をと希うところを、告白を、と言っていた様に思われる。彼は、詩の音楽性にも造型性にも無関心であった。一つの言葉が、歴史的社会にあって、詩人の技術を持ってしても、容易にはどうにもならぬどんな色彩や重量を得て勝手に生きるか、ここに自ら生まれる詩人の言葉に関する知的構成の技術、彼は、そんなものに心を労しなかった。労する暇がなかった。大事なのは告白する事だ、詩を作る事ではない。そう思うと、言葉は、いくらでも内から湧いて来る様に彼には思われた。彼の詩学は全く倫理的なものであった。

 これは、昭和24年に『文芸』に発表された「中原中也の思い出」の一節である。すでに上記のとおり、中也詩のディテールに拘ってきたように、「彼は、詩の音楽性にも造型性にも無関心であった。」の言い回しが、いかに実態を離れた評言であったかは言うまでもないが、小林秀雄が詩の実態を離れてしまったのは、人間中原中也に気を奪われ、「彼の詩は、彼の生活に密着していた、痛ましい程。」とか、「彼は詩人というより寧ろ告白者だ。」とか、「中原は、言わば人生に衝突する様に、詩にも衝突した詩人であった。」とかを言わねばならいたいがために、そのためには一字一句に拘っている姿は、なんともいじましくも似つかわしくもない姿だったからである。そして、終には「大事なのは告白する事だ、詩を作る事ではない。」とまで言わしめ、詩人たる彼の一次性さえも奪い取ってしまうのだが、戦後の中原中也論にとって、このすでに大家の席に列していた大評論家の言は、すくなからざる非詩学的な要因を中也詩に植え付けてしまう。先行的でかつ小林秀雄の交友関係に偏向した中也像である。

詩徒中也の詩篇 この頗る文学的修辞に富んだ評言は、実際のところ散文的なものでしかない。詩を読む前に〈生〉が読まれてしまっているからである。そして中也詩には、不幸なことに、第一詩集『山羊の歌』には、この因縁の知己の評言を実作の水準で裏付ける作品が少なくないのである。たとえば分かりやすくするために、詩集の表題に近い「羊の歌」の一部(Ⅰ・Ⅱ)を例示すると、次ぎのとおりである。

     Ⅰ 祈 り


  死の時には私が仰向かんことを!
  この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
  それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
  罰されて、死は來たるものと思うゆゑ。
  あゝ、その時私の仰向かんことを!
  せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!


     Ⅱ


  思惑よ、汝 古く暗き氣體よ、
  わが裡より去れよかし!
  われはや單純と静けき呟きと、
  とまれ、清楚のほかを希わず。

  交際よ、汝陰鬱なる汚濁の許容よ、
  更めてわれを目覺ますことなかれ!
  われはや孤寂に耐へんとす、
  わが腕は既に無用の(もの)に似たり

  汝、疑ひとともに見開く(まなこ)
  見聞きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
  あゝ、己の外をあまりに信じる心よ、

  
それよ思惑、汝 古き暗き空氣よ、
わが裡より去れよかし!
  われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

   (以下Ⅲ・ⅳ略)

 もちろん、こういう直截的な詩ばかりではない。有名や「春の日の夕暮」(トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏やかです)、「サーカス」(幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました)、「汚れてしまつた悲しみに……」(汚れてしまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる)などの童謡や俗謡調に新しい抒情を添える詩篇のほか、詩形としても二行詩形やソネットなど『在りし日の歌』と連携するものがあり、実際例示した一篇も後半の転調部(「Ⅲ」)と再現部(「Ⅳ」)とを合わせて再評価すれば、かならずしも直截詩では済まされないことになる。それに『在りし日の歌』にも旧態依然とした作品がないわけではない。

しかし、例示した前半部のような内面感が先に立った作品は、『山羊の歌』の基調トーンであり、詩語・詩句のフレームワークをも成すものである。作詩年代も文学青年たる上記彼らとの熱い交友時代である。個人への献呈作品も何篇かある。河上徹太郎はその一人である。『山羊の歌』が、交友を離れていない実証であるが、それ以上に中也がいまだ人との日常的な交友関係を核とした、日記的な生活実態に詩作の動機や契機だけでなく、内実を得ていたことを物語るものでもある。あえて言えば「詩徒中也」の詩篇群である。当然に「言葉体験」(上掲)以前でもある。

 
中也詩の始動 小林秀雄の評言が、結局、大言壮語的に聞こえてしまうのは、すでに中也の向かう世界が、小林秀雄をはじめとした彼らの関心のはるか先にあり、両者間には埋めがたい距離が広がっていたからで、それを中也(の体内)だけが気づいていたからである。気づいていたのは、かつての交友相手からの離反だけではなかった。かつての自分に対してでもあった。ある意味深刻なのは、自分に向かう距離の方だった。あるいはその自分に対する自分からの離反(自己離反)であった。なぜなら彼は、かつての自分から今の自分を立て直すからではないからだ。喩えて言えば、散文的過程からの起立ではなかったことである。それが、彼を、彼らから分かつべく分かったのである。

すべては、詩の原理に沿った必然の過程だった。詩を発見するとは、彼の今から彼を用意もさせずに離反させることであった。個別の生活(日記生活)や人生の履歴を契機としてではなく起こされる、外形を持たない契機。内的でさえない契機。ただ言葉としてしか存在しない真の意味での虚像。虚像が、実態である彼から彼の「かつて」を奪うのである。知覚的には彼らと通じ合っていた言葉である。すでに同じ言葉は、彼の実態を生の中に見出させない、すなわち「失語状態」に読み替えられている。彼だけに可能な読み替えであり、虚脱感として還ってくるものである。

第二詩集の『在りし日の歌』に個人に宛てた詩篇がないのは、意図的に他者との関係を容れなかったためではなく、結果としてそうなったからであり、それが、詩集の全体像に読み取れる「失語状態」の謂いでもある。それは、通話状態を保っていた第一詩集『山羊の歌』が、その先に行くための必要条件でもあった。たとえばその移行過程を、上掲「初夏の夜」(1935年(昭和10))のように夏を詠んだ三つの作品と比べてみると、以下のとおりである。最初は「逝く夏の歌」(1929年(昭和4))である。 


     逝く夏の歌
 

 並木道の梢が深く息を吸って、
 空は高く高く、それを見てゐた。
 日の照る砂地に落ちてゐた硝子を、
 歩み來た旅人は周章てて見付けた。

 山の端は、澄んで澄んで、
 金魚や娘の口の中を清くする。
 飛んでくるあの飛行機には、
 昨日私が昆蟲の涙を塗つておいた。

 風はリボンを空に送り、
 私は嘗て陥落した海のことを
 その浪のことを語らうと思ふ。

 騎兵聯隊や上肢の運動や、
 下級官吏の赤靴のことや、
 山沿ひの道を乗手(のりて)もなく行く
 自轉車のことを語らうと思ふ。 

気の利いたダダ的な擬人化や連想の飛躍を問われても、また「語らうと思ふ」と繰り返されても(34聯)、詩評は一行に対する評価を大きく出ない。おそらく解釈を前に立てられて、評者の既存の発話や発声に相対化されてしまう。詩体として空隙を埋め切っていないためである。評者の立場は、他者のままに留まる。議論はいつか作品の外で行なわれることになるだろう。あるいは酒の肴にされるかもしれない。酒宴の席で放たれた辛辣な中也の言葉は、さらに攻撃的になっていく。埋めきれない「空隙」から放たれた怒声だからである。しかも傍らには別の作品が固く握り締められているからである。

次ぎは同年の作品である「夏」(1929年(昭和4))で、掲載誌は異なるが、掲載月は同月(9月)である。ちなみに「夏」は中也が中心となって創刊した『白痴群』第3号、「逝く夏の歌」は『生活者』9月号である。


    夏


 血を吐くやうな 倦うさ、たゆけさ
 今日の日も畑に陽は照り、麥は陽に照り
 睡るやうな悲しさに、み空をとほく
 血を吐くやうな倦うさ、たゆけさ

 空は燃え、畑はつづき、
 雲浮かび、眩しく光り
 今日の日も日は炎ゆる、地は睡る
 血を吐くやうなせつなさに。

 嵐のやうな心の歴史は
 終焉(をは)つてしまつたもののやうに
 そこから(たぐ)れる一つの(いとぐち)もないもののやう
 燃ゆる日の彼方に睡る。

 私は殘る、亡骸(なきがら)として――
 血を吐くやうなせつなさかなしさ。

 直截的な発声を、脚韻処理や対句法、「もののやうに」(3聯)の繰り返しによる破調効果に響かせるが、「私は殘る、亡骸(なきがら)として――」による散文的横顔を覗かせてしまったことで、駄目押しのような最終行の「せつなさ」「かなしさ」の吐露と相俟って詩としては失墜してしまう。しかし、この最後の2行さえ外してしまえば、それ以前三聯は、すでに『在りし日の歌』の閾に響きわたる内声の水準に達している。

しかし、結局のところ卑俗な譬えに倣えば、これも容易に酒の肴にされてしまう。最後の2行は、いかにも彼らの箸さばきの餌食になりやすいからである。その時、詩人は、今度は「空隙」の際とは違い、このあからさまな詩聯的断絶に対して素直に「非」を認めたはずである。同時に交友がそれ以上のものではないことに自覚的になっていったはずである。

詩人の藝術論 先に掲げた「初夏の夜」(1935年(昭和10))までの6年間は、彼らとの必然の離反(内面的離反)のなかに、単独に芸術論を見出す時間的経緯であった。当然に途中経過の作品分析にも関心がもたれるところながら、省略の上で結論だけを急げば、それは先に微分的にも見たような、「技法」が「言葉」になっていく過程であった。

技法が、それ自体としては無機質であることが、かえって言葉を原初に立ち還らせることになる。原初と言っても言葉の原義ではない。喩えが悪いが、言葉に対する納得である。「納得の仕方」に費やされる在り方、その原初的な姿である。晦渋を装うつもりはない。これは中也本人の考えでもあるからである。彼の箇条書き的な「藝術論覚え書」(草稿)から幾つか拾い上げてみよう(末尾の番号は引用者)。


一、「これが手だ」と、「手」という名辭を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。(①)

 一、藝術を衰褪させるものは固定観念である。云つてみれば人が皆藝術家にならなかつたといふことは大概の人は何等かの固定観念を生の當初に持つたからである。固定観念が條件反射的にあるうちはまだよいが無條件反射とまでなるや藝術は涸渇する。(②)

一、藝術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなつて發生したとも考へられるもので、その認識を整理するものが、學問である。故に、藝術は學問では猶更ない。(③)

  一、(略)藝術といふものは、幾度もいふ通り名辭以前の現識領域の、豊富性に依拠璩する。乃ちそれは人為的に増減出來るものではない。(④)

  一、一切は、不定だ。不定で在り方は、一定だ。(⑤)

  一、然し名辭以前とは云へ、私は印象派の信條と混同されたくはない。即ちかの瞬間的描寫といふ意向と。――名辭以前だとて、光と影だけがあるのではない。寧ろ名辭以前にこそ全體性はあるのである。(⑥)

 書き立てられたのは、全部で33箇条であるから、ここに掲げたのはその一部に過ぎないが、これを『在りし日の歌』への移行過程として読めば、これだけでも大筋は掴める。主眼として置かれたのは、「名辭以前」である。①では、それを「手」の例で説く。②が言うところは、「名辭」=「固定観念」である。③は、おそらく「認識」=「名辭」を言うのであって、その「整理」である学問に対する批判である。なお、「現識過剰に堪られなくなつて發生」したとは興味深い言い回しである。④は、③の対極に立った一カ条である。⑤は、「名辭以前」(認識以前)の具体性を捉えた一文である。同様に⑥では、それを絵画論に言及したものである。

 いずれにしても「名辭以前」を問い立てるこの「藝術論覚え書」の精神は、彼一人に独占されるものではなく、詩人一般に共有される「言語論」ながらも、一人中也において特筆されるとすれば、それが詩人の存在論の読み替えであったことである。冒頭の「詩史論」にたち戻れば、かつて日本語が内在していなかった読み替え(言語行為)である。中也の詩を読むとは、その読み替えを読むことである。それを全体に亘る範囲で可能にしたことこそ、中也詩の「詩史論」を越えた高さの示現であるし、中也によってはじめて成し遂げられた言葉体験――まさに日本語を超えた「日本語」体験であった。ひとまずの結語である。

 
 おわりに~「不在者」への敬意~

 上掲小林秀雄の中也評には、実は偏向ではなく実存を言い当てたくだりがある。これは、筆者の若い頃の個人的体験を思い起こさせるもので、筆者が早くに詩作から離れた(積極的に放棄した)正統性を保障してくれるもの(詩人人間論)でもある。まずはそのくだり(前後略)。

 詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるのかを訝った。

 小林秀雄だけではなく、彼と交友のあった人々は、中也の強烈な個性に異口同音に触れる。それ自体があたかも詩論の範囲であるかのように語る。「詩人人間論」という評価に意味があるとすれば、終に小林秀雄が中也の個性(人間的個性)を指して、「これに慣れる事が出来ず」と回想させ、おそらく亡くなった後でもまるで存命しているかのように、「それは、いつも新しく辛いものであるのかを訝った」と思わせたにちがいないと想像させられるのは、交友から発せられる言葉の内に、詩作品と同様に彼の内面を脅かすものであったことを暗に物語っている。

それに、「詩人を理解するという事は、詩ではなく、生まれ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう」と語る当時の小林秀雄の心中を重ね合わせると、詩人という存在者に対するあるイメージが、自然と浮かび上ってくることになる。それは発話主体に対する違和感だったはずである。同じ言葉(日本語)で語り合っていても言葉が違うのである。通じないのである。しかも詩人の言葉は、相手側を痛烈に刺し貫くのである。

また詩人であるとは、生きながらに相手に対して絶対的否定として立ち現れることだったはずである。極論である。それでは詩人から社会性を奪い取ってしまうからだが、しかし、現実には同様なことが起こっているのである。

ただし詩集のなかの詩人だけでは起きない。詩人が知己に取り替わる場合である。詩集の中だけの存在であった詩人と仮に知り合いになったときの話である。詩人名を知っているだけではいくら大詩人でも実質的には彼にとって一人の匿名者でしかない。個人名のなかで深められる交友でなければならない。

現れ方は違うかもしれないが、小林秀雄が抱いたような内圧的な思いを味わうことになる。言い換えれば疎外感である。小林秀雄が言う、「何んと辛い想いだろう」とは、疎外感を言い換えたものにほかならない。疎外感とは主体を奪われることである。何によって奪われるのか。個性によってである。しかし個性を構成しているのは言葉である。したがって言葉によって奪われ、ときには疎外感から喪失感にまで突き落とされるのである。

ここに知られるのは、詩人が顔を持った段階にはじめて惹起される、両者間を取り持っていた言葉による喪失感である。しかし、詩人が語るのは詩語ではない。彼の個性を彩る日常語である。生活を司る常用語でしかない。それが喪失感をもたらすことになる。

ここに潜むのは、詩人が人間一般である前に詩人であることによって惹き起される、やや唐突ながら不在者の理論である。たとえば音楽家との場合なら起きないのである。音楽家は不在者ではないからである。不在者でないとは、音符は常用語にならないという意味である。その交友からは疎外感は生まれようがないのである。同じ言語活動でもおそらく小説家からも疎外感は発生しないだろう。

したがって詩人の場合だけである。不在者である状態下から語らなければならないかである。かえって姿がなければ――最初から「不在者」であれば救われる。不在という矛盾から解かれるからである。しかし永遠に解き放たれない。顔を持った社会内存在である。

このまま行くと詩論になってしまう。それでは趣旨を違えてしまう。小林秀雄が思ったようには思わない。つまり「生まれ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう」とは思わないのである。詩人の肉体を敬うからである。その時、疎外感は敬意に席を譲るのである。自己防衛かもしれない。それも含めて敬意である。なぜならそれほどのもの、つまり自己防衛を必要とする程のものと知っているからである。

中也も深く敬意を抱かれていたにちがいない。しかし、その敬意は、「肉体」に終始し、かえって「不在者」を見えなくさせてしまった。この先を語っても同じことの繰り返しになってしまうので、すでに駄弁と化しつつある状況から早々に立ち退かなければならないが、中也によって本格的に開始された「不在者」の系譜は、戦後詩の水脈となって今を流れ続けている。あらためて詩に敬意を! これは筆者の個人的な体験の根幹に発意するものであるが、いまは今一度、中也詩に思いを馳せて筆を擱く。


 

上掲引用詩は、旧角川版『中原中也全集』第1巻(1967年)に拠った。この間、集中的に中原中也論に当たり参考にしたもののも少なくないが、今回は議論を広めるような内容になっていないので参考文献は掲げない。ただし冒頭「Ⅰ」に関しては、次ぎの中也論に負う部分――明治期の象徴詩や萩原朔太郎の口語自由詩に対する中也の言語的優位性――があるので掲げておく。

 中村剛彦「中也と道造、その死と生」(同著『甦る詩人たち』32、ミッドナイトプレスweb版「中村剛彦のファイル」、平成10