2014年4月30日水曜日

[ね] 「ネストリウスの夜」小論~ダニール・ワシリスキー(鷲巣繁男)の書・第壱『夜の旅への旅』~


 プロローグ 最初に、表題とした詩の一部(第一聯)を掲げることからはじめる。この詩は、鷲巣繁男が聖名ダニールにワシリスキーを繋げたダニール・ワシリスキーの名前を使って「書・第壱」の詩集とした『夜の果てへの旅』(詩苑社、1966年)のなかの一作品(「ネストリウスの夜」)である。時に詩人、在札幌の身で齢51を数える壮年後期であった。

わたしの眠りに海は遠く、夜はすべての襞を浸す。
年老いた石たちの記憶、神の亀裂。
人間の燥宴を象りつつ、やがて永遠の沈黙の中で、
それらは沙漠へ流れ去るであらう――
果しない苦悩を、純粋の神をも、運び去るであらう。
夢みてはならぬ脳髄よ、一切を。
危ふい映像のそそのかしを拒み、凡ゆる変相の中で唯一のロゴスを愛せよ。
だが、この闇を通して聞える戯れ女の嗄れた恋の唄は、頑なわたしの肉をさい
 なむ。

 拙稿は、鷲巣繁男を詩作品として論じた詩論第一弾である。これまで何回か、詩人について触れてきたが、詩論というよりは「思い出」である。したがってその文中では「鷲巣さん」と「さん」付けだった。題材を五十音順で採っている本エッセイの場合、鷲巣繁男の〝登壇〟の時期は、「わ」音を俟たねばならないから、それでは随分と先のことになってしまう。「思い出」のなかで詩論を試みなければならないとした。課題としながらもそれさえもう大分以前のことになってしまった。前言に偽りありの状態である。これからは機会を作りながらすこしずつ取上げていきたいが、それも今の状況では心許ないので、ここで一度、多少なりとも詩論めいたものを残しておきたいと考えた次第である。
 
 その点、五十音の巡り合わせといいながら、今回が「ね」音であったのは幸いであった。以前「思い出」(「鷲巣繁男とその生命」2007年(私家版に収載))で掲出した詩でもある。詩人の詩的営為を「ロゴス」の飽くなき探求として語るためだった。しかし、ここでは別の思惑によって再掲出している。副題の「ダニール・ワシリスキーの書・第壱」(以下「書・第壱」)を語るためである。「ダニール・ワシリスキー」とは、上記のように詩人の聖名(正教)による「書・第壱」の詩集ということになるが、ただし「書・第壱」と言っても初めての詩集なわけではない。それ以前にすでに5冊の詩集を上梓しているからである。したがった通算では第6詩集となる。それでもあえて「書・第壱」とする。何故か。その訳を知るためにもすこし詩人の詩歴に触れておかなければならない。詩論のための基礎作業でもある。


 1 詩人の誕生

 俳人から詩人へ 鷲巣繁男は、詩人としては遅蒔きのスタートであった。詩作に手を染めたのは34歳時である。それ以前は俳句制作者であり、さらに遡れば、新たな漢詩世界の創造を志望した、漢詩作詩家であった。実に10代前半での文学的野望であった。また10代後半では小説家志望でもあった。作家小島政二郎の門を敲き師事していた。一時のことではあったが単なる夢ではなかった。時代と家の事情(父の急死と一家の経済的柱とならなければならなかった事情)がなければ、目覚ましい筆力や晩年にいたって刊行した、青年時の夢の再現であったかのような小説集の充実度からみて、本格的な小説家として活躍する道も拓かれていたかもしれない。

 旧句集の「あとがき」で、「もともといわゆる詩人になることなど夢にも考えたことはなかつたのに、偶然のことでいつしか他人に『詩人』と言われるやうにやつたのもまこと不思議な思いである。しかし俳句制作者になつたのも全くの偶然であった」として、以下に続く部分で俳句制作までの遍歴を回顧している。再述を厭わずに再確認の意味で「あとがき」を辿ってみたい。

 まず少年の頃は、「ささやかな漢詩作詞家」であり、同時に学問の道に進む腹積もりであったが、小説家を夢見るようになって(16歳)、17歳時には作家小島政二郎に師事。しかし父の急死で家庭は困窮状態となりすべての文学の道を断念。以後青春(の後半生)は兵役に就き、中国大陸にて長い従軍生活を送る。俳句との出会いは傷病兵として帰還した療養先(市川市国府台陸軍病院)での俳人との出会いによるもの(昭和14年)。昭和1711月には再召集で再び中国大陸へ。敗戦後の昭和21年、国府台陸軍病院で句友の間柄となった者たち(自身の家族を含めて3家族)と北海道へ開拓民として入植。開拓の傍ら句作を続け、一冊の句集を上梓する予定にまで進んでいたところで、その計画は詩集(第1詩集)の刊行に入れ替わることになる。同時に句作から詩作へ転向。

 ここに詩人鷲巣繁男の誕生となる。句作者・漢詩作詩家からの新たなスタートであったが、具体的な詩作開始は、俳句の際がそうであったように一人の詩人との出会いであった。「歴程」同人の長光太である。34歳の時であった。句集と入れ替わった第1詩集『悪胤』(北方詩話会、1950年(昭和25)、34歳)以降、4冊を経て「ダニール・ワシリスキーの書・第壱」となった『夜の果てへの旅』(詩苑社、1966年(昭和41))の刊行となる。51歳。何故、「書・第壱」であるか、同詩集の「覚書」にはその言われが記されている。「私は幼児洗礼を受けた。それは私の知らぬところであるが、その故によつて私はダニールとなり、ダニールの名は永遠のものであると信じる。この書はその意味での私の第一詩集である」と。

詩的営為と自己命題 しかし、本人の言であれ、あくまでも「戸籍的」な謂れを言っているに過ぎないのであって、これだけではあえて「書・第壱」としなければならなかった内的な謂れ(内的動機)は見えてこない。なぜなら「戸籍的」な理由であれば、第1詩集『悪胤』当時も当然に「ダニール」の許にあったからである。同じ「覚書」には、俳句から詩へ転換しなければならなかった内的な動機が記されている。今、この内的動機を「書・第壱」への必然として読み替える時、やはり5冊を経る必要があったこと、5冊分の詩的探求は、「書・第壱」の誕生のために欠くことのできない過程であったことが理解される。まさしく鷲巣繁男の詩想と詩論の根幹部分に触れる試行(詩的試行)であった。「覚書」はこう独白する。

二度目の出征の後、敗戦は私の青春と武勲を抹殺し、最も笑ふべく憐れむべきものとした。私は妻子と共に流浪し、悪と生の争奪の東京を逃れて北海道の山に入つて荒々しい開拓に従事した。闇米を買ふ才覚も勇気もない私にとつて精神の亡命であり流刑であつた。やがて共同事業の友人との破綻――病気――私は荒廃の心身を札幌で過ごした。気がつけば三十四歳であった。私は何者でもなかつた。私は死者によつて生きてゐた。ソポクレースはアンチゴネーをして妹イスメーネーに向かい言はしめる。「シツカリオシ、オ前ハ生キテヰルンダョ。シカシ私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ」と。然り、私には死者のみが親しかつた。いや曽て「母が私であつた」やうに私は「死者そのもの」であつた。その時、十年続けてゐた俳句を止め、始めて詩を書いた。私の中に在る死者の憎悪と哀訴をいかにして愛に転じ得るか――それのみがのぞみであり執念であつた。(傍線引用者)

 しかし、そうは簡単にいかなかった。これは5冊を必要とした理由でもあった。「死者によって生きていた」とか「死者そのものであった」とか、一見気の利いた、いかにも詩的営為に相応しい文句(場合によっては虚言めいて聞こえないでもないが)にしか聞えない自己命題が、しかし杳として内奥に詩人を導こうとしない。反対に突き離す。波線は、それだけだと単なる古典の引用に過ぎず、精々気の利いたペダンチックな詩的な引用の技に留まることになる。それが、言葉が「ロゴス」と化した時、詩的宇宙に演じられる詩人の劇(悲劇)となり、その時、詩人は自己命題を生きることになる。では「ロゴス」とはなにか。それには、実作を繙くに限る。たとえば「ネストルウスの夜」のように詩題中に同じ「夜」を入れ込んだ作品を引いてみよう。一目瞭然である。「書・第壱」を遡ること約15年前の初期詩篇中の作品である。

夜の歌
――枝にぶらさがつてゐる腸がうたつた――

酎飲尽歓楽先故些
魂兮帰来反故居些
〈楚辞・招魂〉

重い甘酸つぱい夜がわたしに近づく。
残された地平の光の中で犇いてゐる修羅よ!
一瞬を奪ひあひ、一点の塵のやうな存在をうばひあひ、うめき叫んでゐる生命(ゐのち)よ。
わたしは自由だ、そして深い つきせぬ孤独だ。
わたしにのこされた僅かな時間の中で わたしはうたふ。
断絶の彼方の記憶を、悦楽を、憎悪を。
それらはもうわたしにはいりようがないゆゑに、
わたしはすべてをゆるし、ゆるやかにうたふことができるだらうか――。

ひとは昨日に眼を蔽ふ。
歴史に、深い罪劫に。
墓標は知慧だ。
忘却のための 人間のせいいつぱいの知慧なのだ。
わたしの下にころがつてゐる虚しい片腕、むき出しの眼、男根、
射抜かれた鼻梁、まだ泡立つてゐる血だまりよ。
君等の存在は許されない。君等の存在は憎まれる。
君等は墓標にとぢこめられる。――なごやかな光の下の治癒へのいそぎに。

(間2聯分省略)

本当に無力だつたきみらの形、
かたちのおもひよ。
曙は幾千の鵲をとばすだらう。
わたしを喰い尽すため、きみらの骨をも砕くため。
せめてのぼれわたしのうた、きみらのおもひ。
治癒のいそぎの傷口へ 苦しいゆるしを封ずるため、
深い苦悩をひそかに注ぐため――。       
                                  (括弧内は本来ルビ、以下同じ)

殊更に並べ立ててその出来映を見比べる必要もない。まさに定本詩集で「初期詩篇」として一括掲載(再編)されているとおりである。しかし、それだけに歴然としている、同じ一語々々でも、詩語としての重みとなると、その軽量さが如何ともしがたいことが。順に拾いあげてみよう。「夜」「修羅」「存在」「生命(ゐのち)」「孤独」「悦楽」「憎悪」「罪劫」「墓標」「知慧」「傷口」「苦悩」――これらの言葉とエピグラフの〈楚辞・招魂〉とは、「初期詩篇」以降の緊張関係を知っているからかもしれないが、互いの内側の声の閾で重なり合わない。とってつけたような飾りもの、喩えが適当ではないかもしれないが、文明開化時代の山高帽子のようにそれだけが浮き上がってしまっている。

 副題めいた「枝にぶらさがつてゐる腸がうたつた」も凄惨な戦場の叙景化としてはいかにも技巧(シュールな技法)が勝ち過ぎている。逆効果である。恐らく詩人としても試作の域に留まる水準であるのは分かっていた。あるいは技巧のための技巧にしかなっていないことも。それは「副題」だけではなく、それらはもうわたしにはいりようがないゆゑに、/わたしはすべてをゆるし、ゆるやかにうたふことができるだらうか――。」「かたちのおもひよ。」「せめてのぼれわたしのうた、きみらのおもひ。」のようなひらがなで作る各詩行にしてもである。それでもあえて「副題」も「ひらがな行」も、そして「エピグラム」も必要であった。すべては重い一語々々を得るためである。戦場の「死者」たちに繋がる必要あったからである。その連携への強い思いが、試作品を「作品」として提示することを詩人に許していたのである。先行していたのは、作品以上に死者との邂逅であったからである。

死者との連携 もう一例に当たってみたい。今度は自己命題である「死」を詩題中に入れた作品(「悪胤」収載「沈む汚辱」中の一詩)である。

死の舟

この雪もよひの天から 瑞々しい乳房が垂れ
ひとは一つの恋慕にめくるめき 酒をのむ
すべてはかへりがたい時間のために賭けてしまつたのか
そしてなほ 賭け尽すものが残つてゐる予感のゆゑに
生きねばならぬのか

死の舟を飾り装ひ 纜を断たう――
幻影に憑かれし者やがてよみがへると
ことごとく記憶の鳥を森に還さう
もの皆は己れしづかな座にしづもり
狩人は今運ばれてゆく

乾からびた血痕にあらゆる記憶は封じられ
泯びの〈時〉が泡立つとき
傷口より忘却はたちのぼる
あの恋慕 あの生殖
形はなほもゆめみつつ彷徨ふのか

死の前に面を蔽ふともよ
ああ 死さへもきみが飾りであるならば
なげきのゆゑに生きるがよい

 一見して明らかなように、「夜の歌」よりは直截的に自己命題を詩化している。二項の対峙が効果的である。今と過去である。しかし対立的とは言え、両者は過去(死者)のなかで繋がっている。逆に今のなかでも繋がっている。否、繋がろうとしている。それがこの詩である。しかし、繋がり切れないのである。正確には部分々々では繋がっている。その部分性が作品としての提示を許し、また保証もしているのである。

 では、なぜ繋がれないのか。偏に「今」を構築し切れないためである。「瑞々しい乳房」を掲げ「恋慕にめくるめき 酒をのむ」と「今」のなかに在る欺瞞性を「過去」に向かって論う。「過去」との繋がりを取り結ぶために必要な、言ってみれば告解室での告白でもある。そして、「今」を生きている意味合いを「予感」(こうして生きていることにも意味あると囁きかけてくるその予感)のなかに問い返していくためでもある。

 第一聯最終行の「生きねばならぬのか」との一つの答え。それは、「過去」との向い合いのなかで引き出されたものである。しかし、第一聯がつくる詩的文脈上に乗る「過去」は、抒情と交感して時間の平面上を水平に漂ってしまう。故に「飾り装ひ」に浮かぶ「死の舟」も「纜を断とう」と自らに呼び掛けたとしても、必ずしも「過去」の水面に向かって滑り出して行かない。

 初期詩篇のなかで行なわれた詩的試行は、あるいは俳句がつくる「今」を詩の「今」として再自覚するための「過去」への向き直りであったが――ただし詩的契機としてはその反対であって、「過去」に向き直るための「今」(「詩」の「今」)であり、その必要性であったが――具体的な方法論(詩論)を伴わないなかでの「過去」は、詩的営為の位相では単なる「今」を飾り装う「今」の一部以上ではない。しかし、「覚書」を命題化するためには、「今」が「過去」の一部であるような詩的構造体の創出になっていなければならない。

 見出された方法論が「ソポクレース」(波線)以下である。「古典」の内在化であった。同時に詩情の相対化が達成されなければならなかった。とは言え、詩情(短絡的には「抒情」)から距離を措くことは、詩の本質論に抵触する難題である。「死の舟」の上で言うなら、第二聯に背く行為でもある。同聯は詩情として完結的である。詩情を自らに容れない態度とは、言い換えれば「完成作品」を容れられないことである。それは詩に転化したことに対する自己否定でもあった。「書・第壱」の誕生というより、難解と遠ざけられる詩人の世評のためにも、明かされなければならない「難解」以前の「詩論」的格闘である。


2 「初期詩篇」の世界

詩情の克服 詩への転喚は、たとえ後年から遡る内的契機(聖名)のとおりだとしても、俳句にない言語的誘因が、さらに詩への転換を加速させたと思われるのである。言い換えれば詩情からの誘惑である。「初期詩篇」は、自己命題の傍らでその喜びに満ち溢れている。むしろ傍らの側にあるは自己命題の方である。幾つか掲げてみよう。

朝の歌

樹液よ昇れ 果もなく 梢はふくれ、
彩なすは不安と治癒の予感のふるへ。
兜虫、堅き小さき眼のうらぶれ吹かれ、
朝はなほ、狂へる天使壁に倚り、
凶器の祝祭(まつり)ひしめきて街にあり。
(上掲「沈む汚辱」冒頭詩)

土地の書

蒙昧の煙霧の底の
虚無を拒否する葦の水滴
その日 はじめて鶴はわたつた

遠く火をめぐり悴む獣たち
乳房に下る緑の闇
葡萄の酒は熟す 神々のかどで

おびただしい石斧、石鏃を擲ち去つた先祖(みおや)の流浪
虹を支へる〈土地〉の老いたる幻影
森では今日しづかに木が縊れる
                       (「土地の書」収載「暦日」の一詩)

比較的引用しやすい短い作品を選んだとはいえ偏った選択ではない。いずれにしてもこれらの詩篇に明らかなように、詩人にとって言葉は新しい詩情(抒情)そのものであった。新しい詩情を手にするためにも詩人という立場でいなければなかった。言葉が先にあるのか、立場が先にあるのか、同じことの表裏を問うているにすぎない気がしないでもないが、いずれにしても詩人という存在形態を介して成立する、一方を欠いては成り立たない両義性である。

 しかし詩人は、最初の2年で「詩情」に自己を見出すことができないことに自覚的になる。上掲「死の舟」に戻れば、第二聯の詩情から離れる方向に見出されたのが最終聯であった。「死の前に面を蔽ふともよ/ああ 死さへもきみが飾りであるならば/なげきのゆゑに生きるがよい」。抒情を「存在」の側に傾けた3行である。「死」は独白(詩情的響き)を越えて他者として近づき、それが言葉の上に「自己」として実現されている。

詩と思惟的主体 しかし、実現度はいまだ部分でしかない。加えて「詩情」のほかにも克服すべき大きな課題が残されていた。それが「自己」である。具体的には自己対峙の在り方となる。そう言い換えた方がよいかもしれない。その先には近代詩的在り方との対峙も待ち構えている。「今」・「過去」で言えば、「自己」が「過去」より「今」を主張してしまうからである。あるいは、「今」に再編された「過去」を創ってしまう思惟的主体であるからである。再編に在るのは、私小説的な自己とまではいかないまでもカテゴリーとしては同じ範疇である。近代的詩の在り方との対峙はそれだけでは済まないが、それはともかく、次の作品にその課題(「自己」)の一端が浮かび上がっている。

禿 鷹

死の際に おれは萎びた乳房を拒むであらうか 母よ
おれはおまへの涙を 眼脂を
獣のやうなすすりなきをあざけるであらうか
おれは 死に際にわが童女の捧げる花束を拒むであらうか
おまへの未知の恐怖へのあとずさりと追従の悲しみをあざわらふであらうか
おれの枕辺で 万巻の書を焚くがよい
死後にもなほ日輪がめぐることを信ぜねばならぬ末季の魂のために

おれの視界に薄明は迫り ただいちめんの葦のひろがり
そよぎ をののき
おれはその広茫と蒙昧から ただ一本の思惟をさがしあぐんだ
いま おれを支える無為の折葦の ただ一点の青空――確証よ
烈しい禿鷹をそこより下し おれの肝脾を啄ましめよ
かすかに乳をかもす萎びた天の乳房を しばし思慕ゆゑ 翼はめぐりためらふ
 とも

 言うまでもなくこの詩のなかでの思惟的主体は、「おれ」ないし副助詞「は」とともにある「おれは」(以下「おれは」とも)である。また「おまえ」も単なる客体でなく主体の裏返しである。一つの自己でしかない。この構図化に発声する言葉の質は、「おれ」や「おまえ」を「一本の思惟」として束ねるためにも強張ったものとなる。冒頭から4度に亘って「あらうか」と繰り返される、反語的な言葉の投げつけ。こうした荒々しさを支えるのは、偏に「おれ」に対する信念。あるいは信念を育てた「万巻の書」。その信念は、一つの結論の如くその書を「焚くがよい」と言い放って迷わずにいる。「おれ」を越えたものがあるからである。「末季の魂」である。

 しかし一度、「おれ」の内奥(「末季の魂」)を明かした後では、すでに「おれ」に対する単性の声音だけでは詩篇を編むことができなくなる。作品として成立させるためには、一度「おれ」を包む強勢を離れ、「末季の魂」に沿った文脈で語る必要がある。それが第二聯である。「おまえ」と同化した「おれ」は、すでに「おれ」だけとなって「葦のひろがり」の前に佇み、「一本の思惟」の先に天地二極を大きく吸い込んで、垂直に降下する禿鷹に体を開き、穢れた肉体の聖化のためであるかのようにして、その啄みに肉体を曝け出す。そのとき「禿鷹」は、「おれ」をも啄む。「おれ」に対する批判的態度の提示でもある。しかしながら発語は途絶える。自己批判は、「翼はめぐりためらふとも」と余韻のなかにたち消える。

 したがって「おれ」は、「私は死者によつて生きてゐた」や「私は『死者そのもの』であつた」という自己命題を引き受けることはできない。余韻が呼び戻すのは、はじめに立ち戻ってしまうような、再びの強勢を生き直す「おれ」でしかないからである。しかし、強勢のもとでは、「死者」は「過去」の衣を纏って同じ褥に横たわろうとしない。「おれは」に発する思惟にしろ、あるいは前掲の「詩情」に語りかけるような内なる声にしろ、「過去」を「今」に現在化して「死者」を生き直すことはできない。呼びかけて終わるだけである。呼びかけは、詩の力でもあり特権でもある。しかし、そのまま限界として彼(「詩人」)に立ち塞がるのも、これまた詩の力であり特権である。まさにこの場合がそうである。

「わたし」への転喚(予察) 詩作に転じた鷲巣繁男が、自らの聖名を入れ込んだ「書・第壱」とする詩集に至るまでには、転換時点から17年の歳月を要する。第二詩集『蛮族の眼の下』(昭和29年)は、「おれは」に立ち戻り、「おれは」が放つ強勢振りを詩語の核とした詩集である。強靱な思惟の主体のもとでは「祈り」の影は伸びない。後に聖名を冠したダニール・ワシリスキーが新たな詩人名となり替わるためには、「祈り」を詩想とし詩語とするのは絶対条件だった。しかし「おれは」(第二詩集では「オレハ」)がつくる「嘆き」は、必ずしも「祈り」の精神に基づくものではない。むしろ聖心性としては「祈り」を押し退ける方向に立ってしまっている。

 今はまだ「オレハ」の詩を詳述する段階ではないが、「オレハ」の裏返しでもある「嘆き」は、後に「祈り」に向かう一過程としてもいずれ詩作品に立ち入った分析を必要とするものである。それはともかく、いまだ「祈り」の手前に止まるとしても、おおきく転じる機会であったに違いない次ぎの一つの詩を掲げ、そこで「わたし」が主体化していくなかにあらためて初期詩篇の一部をなす「おれは」の詩論的段階を再確認して、冒頭の「ネストルウスの夜」の詩的世界の前に静かに佇むだけとしたい。掲出するのは第三詩集『メタモルフォーシス』の巻頭詩(序詩を除く)である。

白 鳥

故其地に御陵を作りて鎮り坐さしめき。
……然れども亦其地より更に天翔りて飛
び行ましぬ。        〈古事記〉

はりつめられたわたしの形象よ、
わたしを促す 限られたわたしの輪郭よ、
わたしの羽摶きはわたしを生み、
わたしに触れる物皆の 顫へるあはひ。

おお この間(あはひ)! そこからは果しない無。次々にわたしがみたしてゆく無よ。
わたしから生まれゆく無よ。
そして 私の重さ。
死よ! と呼びかけてわたしは顔あからめる。
愛といふまぼろしが一つの歌となつて わたしを縛る。
化(な)つた! はづかしさ、うしろめたさ、心弱さ。

虚空(あおぞら)の寂しさ。わたしは耳を澄ます。ふたしかな一つの叫びに。
いつの日わたしは深淵から昇つてきたのかと。
わたしと叫びを隔てるのは輝く日輪であるのかと。
いつの日かわたしが又その叫びに還つていかうといふのに。

わたしは〈物〉であるのか。
無へと憑かれた〈物〉の その狂ほしさが荒々しく血を流すのか。
それとも ひとよ、御身らを支へてゐる秩序が、
星々のやうに このわたしをも支へてゐるといふのか。

さうだ。女よ、裳裾の端の月の障りがわたしをおどろかす。
あらがひ難い一つの運行がわたしをみじめにうちのめした。
だが わたしは安らぎを知らず、
わたしの意志は焔と闘ひ、嵐の中でたかぶつてゐた。
わだつみの果に遠く去つた女!
記憶よ わたしの中に累積する御身等の無が、
それらが歌つた ただ愛といふ一つの歌が、
わたしの頬に ひとすぢの涙をながした。

いきのをの流せし血は ああ なべてかの日の熱となるかに。
くるしみは限りもしらず。
なほこのわたしの重さ。わたしの翼に
触れる無よ 限りを知らぬ。
追いすがる者よ、
まろびおらぶひとのひとみよ、
消え失せぬわたしののぞみも、限りを知らぬ。

いつの日かわたしを見たといふ語りつぎは……
わたしのまぼろしを負ひ天翔るわたしの形は……


  「ネストリウスの夜」小論

 詩読の前提 とりわけ「書・第壱」以降の鷲巣繁男の詩読に立ち塞がるのは、世界の古典的叡知を異なる文脈に単独的に組み込んで、再整序していることである。あるいはペダンチックな響きを奏でることから賢しらな趣が疎まれかねないが、あえて自ら引き入れたような衒気さも、上記したような経緯の先のあるとすれば、すくなくともそれが単なる博覧強記の開陳の類とは一線を画するものであることの予想は立つはずである。詩論上の必然でもあるので詳述を要するが、これも後日としたい。

 いずれにしても、その古典的意味を知ると知らないでは、詩読の味わい方が違ってくるだけではなく、深まり方もおおきく違ってくるのはたしかである。たとえば、上掲「覚書」の「ソポクレース」が好い例である。古代ギリシア悲劇の詩人と知るだけでは足りない。棒線した部分とそれ以下の科白、「ソポクレースはアンチゴネーをして妹イスメーネーに向かい言はしめる。『シツカリオシ、オ前ハ生キテイルンダョ。シカシ私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ』の部分。一級の悲劇作品であることを知る必要がある。さらに悲劇が単なる作り話で終わるものではないこと、たとえ架空であっても(当時もそう分かっていてなお感動を齎していたのだが)、深い哲学的リアリズムに満ち溢れた、人間を問う一級の文学であったことを知る必要がある。その時、姉アンチゴネーが妹に向かい語り聞かす、「私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ」が、2400年前という「過去」を越え、越えた分普遍の重みとなって、「死」や「死者」として「今」に甦えることになるのである。

 「ネストリウスの夜」も同様である。したがって、カタカナの固有名詞を理解しておくことは、詩読の前提であり条件でもある。不要な注記かもしれないが、再確認の意味合いをこめ幾つか「解説」を加えておきたい。
 
「先行注記」 詩題の「ネストリウスの夜」の「ネストリウス」は、異端とされた古代キリスト教の一教派(ネストリウス派)の始祖。彼(381?451)はコンスタンティヌポリスの総主教。431年のエフェソス公会議(「エフェソス公会議」は、通算第3回目の公会議。「全地公会」(正教会)とも言う)。エフェソスは現トルコ)においてその教義は異端の扱いを受ける。

 キリストの「位格(ヒュポスタシス)」を巡る対立である。それ以前の公会議(325年=第1回:ニカイア公会議、381年=第2回:第1コンスタンティヌポリス公会議)では、神と子は「同一実体(ホモウーシス)であり(第1回)、さらに「聖霊」を付加して父・子・聖霊の三位は絶対的な統一体(ウーシア)されたが(第2回)、その後(5世紀)、キリストの神性と人性との結合性の問題が議論されるところとなり、キリストの神性を強調する単性論に対して、神性と人性を別のものとする両性論に脚ってキリストの人性を強調したのがネストリウス派の考えであった。同公会議では、単性論者による神性と人性の結合が確定するところとなり、ネストリウスは排斥されるに至る。

 詩(「ネストリウスの夜」)の後景・前景をなし、やがて極点化される「マリア」の扱いも同時に確定することになる。ネストリウス派ではマリアを人性の裡に見て、「神の母」と見なさずに「キリストの母」とするが、その教義を異端として退けることによってマリアは真に「神の母」(正教で言う「生神女(テオトコス)」)と定められることになる。以上は、オリヴィエ・クレマン『東方正教会』白水社文庫クセジュ、高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫による。

 異端として排斥されたネストリウスの教義は、その後、ササン朝の庇護のもとメソポタミアの地にて、後に「アッシリア東方教会」に繋がる布教を広範に展開し、498年にはクテシフォン・セレウキア(現イラク)に新しい総主教が立てられることになる。異端として排斥されネストリウス自身は、エジプトに追われた後、追放された同地にて客死。
 
 以下は、辞書風。「イシタル」=メソポタミア神話中の性愛の神。『ギルガメシュ叙事詩』(古代メソポタミアの叙事詩)では、ギルガメシュから求愛を撥ね退けられたことに激しく怒り嫉妬心に滾る姿として描かれる。「イシス」=エジプト神話の生と死を司る女神。弟セチに殺害され、ばらばらになってしまったオシリス(夫)の遺体を繋ぎ合せ復活させたことで有名。処女の身のままホリスを身籠ったことからマリアの原型とも。「ラザロ」=イエスによって死後4日目に墓より呼び起こされた人物(「ヨハネによる福音書」11144)。ラザロはヘブル語名エレアザル(「神は助けられた」)のギリシア語音訳。「ステラ・マリス」=聖母マリアを讃える聖歌中の呼び名(「海の星」)。なお、エピグラムのHermannus Contractus(ヘルマヌス・コントラクトゥス、10131054)は、マリアを聖歌に採り入れた最古の作曲家。
  
「ネストリウスの夜」(詩読) 以上ももとに同詩全体を以下に掲げる。

ネストリウスの夜

                                           Ave praeclara Maris Stella……
 〈Hermannus Contracus

わたしの眠りに海は遠く、夜はすべての襞を浸す。
年老いた石たちの記憶、神の亀裂。
人間の燥宴を象りつつ、やがて永遠の沈黙の中で、
それらは沙漠へ流れ去るであらう――
果しない苦悩を、純粋の神をも、運び去るであらう。
夢みてはならぬ脳髄よ、一切を。
危ふい映像のそそのかしを拒み、凡ゆる変相の中で唯一のロゴスを愛せよ。
だが、この闇を通して聞える戯れ女の嗄れた恋の唄は、頑なわたしの肉をさい
 なむ。

怖るべきエロース。夜のイシタル。夜のイシス。
御身は、かうべをめぐらして微笑する。
佇立する古木のやうなわたしの告発は、ついに自らをあざわらふ。
泡立つ群衆は、永劫への回帰の中で、マリアよ御身を崇めつぐであらう。
恋の唄を受納し、幻影を定着するもの、寸断された肉を復元する悲しみの統率
 者、
忌はわしい変形と、吸収と、流転の中の大なる不動の母よ。

ラザロ、ラザロ、おまえはもう蘇らぬであらう。主は心重く立去り給うた。
主よ。関はりなき御身の名は、常に空しい栄光でスフィンクスの上にメッキされるのだ。
――荒涼たる人間の砂漠に傍に。
それとも、私の流謫こそ、この恩寵なき砂々にふさはしいのか。
しはがれた恋の唄が、無縁の弾劾者にまつはり止まぬとき、
万物をさかりゆく頑な心は、孤独なわたしの神とともに眠るしかないのであら
 うか。

おお、硬直する観念。
張りつめられたわたしの星座は、広大な宇宙の中で雄々しく緊張に堪へなが
 ら、
なほ、失墜するサタンの予感にふるへてゐる……
主よ、最も御身を愛すると信じるわたしを、そのとき救ひたまふであらうか。
  
汚辱の世。わたしの微かなまどろみをゆすつてゐるイロニイ!
わたしの眠りに海は遠く、
そこで船人たちはすこやかに歌ふ。
美しきマドンナ! ステラ・マリスを。

 以下のように読み取ることが、はたして詩語・詩行に籠められた詩想を正しく反映しているか危ぶまれるが、予め得た古典的知識で読み進めると、第一聯からは、異端として排斥されて、エジプトに追われたネストリウスの哀しい声が聞こえてくるのである。「わたしの眠りに海は遠く」とは、ボスポラス海峡によって繋がれたマルマラ海・黒海への思いであろうか。砂漠の夜の深い闇。古代文明に栄に繋がる「石たちの記憶」、そのなかの神。すでに深い亀裂のなか。往時の都人の「燥宴」をも刻んで沙漠に埋もれるに任せられている。解かれたのである、かく人々は。今はその唯中に佇むわたし。「果てない苦悩」もわたしを占めていた「純粋の神」も、この広漠とした沙漠の夜に運び去られようとしている。そして、わたしただ一人のために求めるべきもの、すなわち「唯一のロゴス」に囚われなければならないとする声が体内を占める。その一方では「頑ななわたしの肉」に向かう、もう一つの沙漠の夜の「戯れ女の嗄れた恋の唄」が、闇の彼方から伝わってくるのである。
 
 まさにエロス。沙漠の中の「恐るべきエロース」。そのエロスを一身に纏う遠く離れたメソポタミアの地のイシタルの誘惑。激しい愛欲。自分を避けた者に対する激した嫉妬。彼女のなかの男への憎悪。このエジプトの砂漠にあって、愛で生を復活に導くイシス。同じエロスを対極に為す二人の女神。彼女等の「微笑」。そのなかでわたしはなにを告発すべきというのか。「微笑」は自らのへの「あざわらい」に姿を変えるのである。それ故にわたしは、「微笑」を越えて「あざわらい」を包み込むものに面を上げようとする。その時、わたしも群衆のようにして、「永劫の回帰の中で、マリアよ御身を崇めつぐであらう」にちがいない。イシタルやイシスを内に容れても、人性にして「エロース」を超えた存在である「大なる不動の母」マリアよ、御身の愛を求めて。
 
 かくて「マリア」に昇華する絶対的にして永遠なる愛のもとで、わたしは「主」の救いからさえ浮ついた思いで自律的になり、甦らぬ「ラザロ」をも生きようとする。そうしたわたしの態度(驕り)に心を傷めて、「主は心重く立去り給うた」のであった。それもこの「荒涼たる人間の沙漠」にあればこその浮薄な心の為せる業なれば、傲慢にもわたしは口辺に上せてしまうのであった。「主よ。関はりなき御身の名は、常に空しい栄光でスフィンクスの上にメッキされるのだ。」と。しかしその不遜な言葉は、そのまま自分に返されることになる。「わたしの流謫」としてである。なによりも沙漠に相応しい姿であることか、この「流謫」。そして、この深い闇の中で万物から離れた孤独な心の中で、愚かなわたしを容れる神に「流謫」を委ねてともに眠るしかない「わたし」。

 結局、わたしは甘える。故に「失墜するサタンの予感にふるへて」も、なお神に容れらているとして、その救いに心を寄せている。これこそ「イロニー!」――眠れる「まどろみ」を包む、まさしく「汚辱の夜」に突き付けるべき言葉。そして、この叫びの先にさらに遠い海を想う。海上に浮かぶ船とその甲板上の「船人たち」の高らかな歌声に内なる耳を傾ける。その歌。「美しきマドンナ!」(「キリストの母」)マリヤ(「ステラ・マリス」)へ向けた賛歌の響きこそわたしの安らぎ。

 詩作の必然 しかし、このように読んだのだが、問題の本質は、読み方ではなく、読む必要性についてである。つまり疑問としてである。キリスト教に深い関心を持つ向きならまだしも、そうでない人にとって、しかも古代キリスト教となればなおさらのこと、上述のように読む態度が、解釈が外れているとかさらには誤っているとかではなく、現実と照らし合わせて別世界のことにしか伝わって来ないないからである。それなら幻想的な世界としてならどうかと言っても、幻想文学を好む向きには、詩語は直截的で時に断定的である。さらに意味が勝った言葉遣いには、余韻が生まれないどころか逆に言葉の繋がりの中で「詩情」を打ち消している。総じて硬質である。
 
 おそらく詩作としての必然が問われるに違いない。普通は「必然」のなかで書かれるからである。詩人を現存と繋ぐものでもある。現存とは生存性の謂いでもある。したがって「必然」は、生存性への問いであり、問いを深めるなかにさらに「必然」を高めるものでもある。その場合、「必然」は、詩の保証であり同時に目的でもある。その「必然」が無いのである。言葉が重いだけに、その分、詩読を苦痛なものにさえしかねない。事実、そうなっているはずである。
 
 しかし、「必然」が意図的に遠ざけられているとしたならどうだろう。それも遠ざけるために遠ざけているのではなく、それ自体が「必然」だとしたなら。つまり詩人の詩論だとしたなら。それでもやはりこじつけにすぎないと、容れられようとはしないのだろうか。徒に難しくしているだけではないのか、それも詩作が深まっていないことに対する隠蔽工作として。そうは言わないまでも、勢い晦いことに対する取り繕いとして。そうではないのか。

詩読の扉 結局、「説明」を離れて成立するのが詩である。通常は「必然」が「説明」の機能を果たしているのである。しかし、説明機能と矛盾関係をつくるのも「必然」の本質である。むしろその本質から詩が求められることになるとさえ言える。鷲巣詩も同じである。あるいはそれが、「書・第壱」の別の姿であるかもしれない。それならやはり詩読態度に問題があるのだろうか。実はあるのである。詩が詩一般として保証されていないこと自体を、知られていなかった言語空間として詩読上に転化してないからである。ではそうだとしてどう読めば良いといのか。 

 一時、漢詩制作に新しい表現を探ろうとした詩人である。「必然」を欠くというのならその表現態度に近いだろう。漢詩がその形式性によって最初から「必然」と一線を画しているからである。もしそこに詩作態度を認めてよいとしたなら、相当程度訝りが消えるはずである。問い立ても一歩先に踏み出す。それでもどう読めばよいかのという思いは、相変わらず再生されるかもしれないが(しかも累積的に)、どうやら詩作態度としては、詩の根源に触れる本質論を傍らに試みられているのかもしれないと疑うようになる。また詩篇を見る目も変わる。大きな体系下に置かれているのでなないかと怪しむようになる。まさにそのとおりである。実に構築的な詩的営為であったのである。個別の詩読はともかく、個別を越えた大きな詩想を予感するとき、すでに新たな詩読の扉が開かれようとしている。ただ詩人自らが呼びかける形では開こうとしていないだけである。


おわりに~鷲巣繁男の「朝の歌」~

詩集上の位置 今回は「書・第壱」の詩集全体を対象としていないし、当初の目的としては、「書・第壱」を前にしてその詩読のために初期詩集に遡る必要性を目論んでいたので、すでに大方の目的は果たしているのであるが、最後に、さらなる詩読のために、表題とした「ネストリウスの夜」が、「書・第壱」に占める編成上の位置についてだけ確認しておきたい。言うまでもなく詩集のタイトルである『夜の果てへの旅』と同じ「夜」を詩題の一部としていることからも、詩集上の位置的な大きさは自明的であるが、それ以上の役割を担っていることが、目次(『定本詩集』巻末)を繙くことで明らかになる。

 その構成は、大きく三部構成をとっている。すなわち、「夜の歌」「インテルメッソォ」「ゲッセマネ」である。あえて注記すれば、「インテルメッソォ」とは間奏曲のこと、「ゲッセマネ」とは、キリスト最後の祈りの場所であり、また聖母(生神女)マリアの埋葬地として知られた地で、エルサレムのオリーブ山の北麓地の地名。

 三部詩篇中「ゲッセマネ」の最後の詩、したがって「書・第壱」の最後の詩となるが、その詩題を見ると、「ダニールの祈り」とある。しかも、5編構成の同詩「ダニールの祈り」の最後の小詩篇が「ダニールの朝の歌」であることを知る時、この三部かなる大部の詩集の意図と「書・第壱」であったことの必然が、同時に告げられた思いにさせられるのである。

詩集の構成 この「夜」から「朝」、それは「わたし」の新生に相違ないが、そのためにも「夜」の闇の深さが詠われなければならない。その点、「ネストリウスの夜」は、「夜」の連作の最後に措かれているのである。「夜の歌」(詩篇第一部)は、10作品からなる。内、8作品の題が「夜」を使っている。「夜の果への道」「アンチゴネーの夜」「オレステースの旅」「テセウスの夜」「サムソンの夜」「アッシリアの夜」そして「ネストリウスの夜」のとおりである。

 プロローグを果たす冒頭詩「夜の果への道」のエピグラムには、≪ギルガメシュ叙事詩≫の一句(「暗闇はふかく、そこには光がない」)が引かれていることをはじめ、それぞれの詩の題名を横に眺め見ただけでも分かるように、この配列は実に構成的で単独的にも完結性を保っているが、より大きな詩想としてそれぞれが作られ、また叙事詩的な前後関係を保って構成的に並べ置かれていることが痛感される。この構成こそが、鷲巣繁男の叙事詩の深みを生んでいるのであるが、その最後を「ネストリウスの夜」が担っているのである。だからと言って読み方が大きく変わるわけではないが、連続性の中での再読は、自然と先の展開をも射程に入れたものになる。すでに詩読は一歩を踏み出しているのである。

 これ以上の言及は詩集全体の分析になってしまうが、冒頭に「死者たちへの手帖」を置いた第2編「インテルメッソォ」の「死者」との直面を経て、終結篇とも言うべき「ゲッセマネ」の第3詩篇の各作品は、大きな構成力を身に纏い、そのなかで自分以上の力を得て起立することになる。そして、辿り着いた「朝の歌」は、新たな詩人として再出発するうえの宣言詩でもあった中原中也の「朝の歌」でもある。意識的な詩題である。その意味もあり、最後に鷲巣繁男版「朝の歌」を掲げ、再述の時期をいつとは定められないが、一先ず筆を擱く。

ダニールのための朝の歌

わたしの記憶にない、しかし確かにあつた
幼児受洗の日のために

ダニールよ。目を覚ませ。けだるい夢の名残りのてのひらを胸におき……。
はじめて光がおまへを性急に包んだとき、小さなくさめがおまへを主張したや
 うに。
うすあかりの中から、おまへの世界が しだいに形をとらへていつたやうに。
ダニールよ。おまへも亦、出生といふ伝説を負ひ、そして、おまへの名も、
その物語の中で膠づけより強くおまへに固着し、おまへを支配したのだが、
慎しい原始の中で、聖なる水につかつたおまへの肉のゆゑ、
あらがひ難かつたおまへのさだめの日より、
一滴の水も 行為の中で黄金となるであらうから、
ダニールよ目を覚ませ。
数々の記憶の夜から おまへの試煉の昼の光へ。

貧しいものよ、おまへは時間をもつのではない。
おまへの苦しみが時間と呼ばれるのだ。
施された一滴の水の証しへの、おまへの凡ゆる反抗(あらがひ)も、
おまへのささやかな歴史となり、いやはてのクルスへの途となるために……。
そして、朝の歌、みどりごのくさめのやうに、くるめきのやうに、
聖化さるべき予兆の歌が おまへの胸に鳴り出でるべく。

≪主憐めよ。主憐めよ。
われは愚かなるまま 今朝も起き出づるなり。
われらが貧しきカーテンの楽(ねが)ひ垂れる裡にありて、心驕りて止ま
ざるに。
われらがために血を流せしひとを われは羨しむに。
この美しき大気に肺は愕き、
そして又、わが名も驚く!
アーミン≫


[付記] 本ブログ20136月「[号外]ご一読下さい」から拙文「鷲巣繁男の詩―手放さなかった軍隊手帳―」(「Midnight Press WebNo.6「詩人の肖像」)にリンク可能。小文ながら上記で触れなかった(あえて触れなかった)「流謫」なる詩的営為の背景に言及した。参照願えれば幸いである。