2013年4月12日金曜日

[し]「島」~神女たちの島・久高島~

[し] はじめに 島国に始まって島国に終わる。それが日本である。グローバル化が叫ばれても「島国日本」である。日本を島国から解放するはずのメディア論のなかでさえも指摘している。曰く、「日本のメディア(マスメディアに限らず、ネット・メディア)も、90年代より閉鎖的」であると。2011年刊行本のなかの一節である。閉鎖的と島国とが直結するわけではない。また、著者の意図もナショナリズム化への警戒にあったのかもしれないが、「島国」という生態的なフレームは、「ネット・メディア」のそれであるとも読めたのである。この最先端ともいうべき学門を前にして考えさせられたのが、「神の島」と呼ばれる久高島のことだった。具体的には、その「島」体験と体験の意味だった。


 訪問の契機 今年(2013年)2月後半、久高島を訪れた。前日には世界遺産でもある斎場御獄(せーふぁうたき)の三庫理(サングーイ)から正面に久高島を見た。自然に組み合わさった大岩の三角形の狭い隙間を潜り、潜り抜けた拝所から先に見えるのが、海面に貼り付いたように浮かぶ久高島である。因みに斎場御獄は琉球開闢神話にも登場する琉球王国で最重要視されていた聖地(御獄)であるが、沖縄(琉球)にとって聖なる方位の東に向けて、首里府から遠く離れた地に大岩潜りの遥拝所を設けているのは、その先に琉球のクニ創りの本となった神の島・久高島が眼前に浮かぶからである。17世紀以降、琉球国王は、聞得大君(最高神職者)を伴って、同拝所から久高島を遥拝するのである(それ以前では直接参詣)。
 久高島に本格的に強く惹かれたきっかけは、一人の写真家を特集した「日曜美術館」(Eテレ)だった。「沖縄 母たちの神―写真家・比嘉康雄のメッセージ―」(20101212日放送)がそれであった。強烈な白黒写真の世界だった。2000年に61歳で亡くなった沖縄の写真家である。沖縄県立博物館・美術館の美術館側で開かれた回顧展を、写真家の再評価に焦点を当てながら、日本の源郷を問う形で取上げた番組であった。
白黒写真の世界を貫くのは、沖縄の歴史の矛盾を人生の転機とした写真家の、自分自身を蔽っていた陰影でもあり内声でもあった。フィリッピンで生まれ(1938年)、敗戦後に沖縄に引き上げてきた比嘉康雄は、高校卒業後、嘉手納警察署に10年間勤務するが、民衆デモに対峙しなければならなったような自己矛盾を抱えなら、終にB52爆撃機の墜落事故に遭遇したのを機に警察官を辞職する。退職後、鑑識業務で覚えた写真技術を生かすべく東京写真専門学校に学ぶ。同時に広範な写真活動を開始し、1971年に「生まれ島沖縄」展を開催して以来、沖縄(琉球列島)の古層を撮り続け、多くの写真集を刊行する。同時にここで取り上げる久高島に関する貴重な著書を残す。
なかでも久高島は、彼が追い求めた沖縄の古層の根幹をなすものであった。白装束に身をやつした島の女性たちによって顕現された厳かな祭列や祭祀のなかの神舞。背後の森や空・海との間に浮かぶ神女たちの陰影。その陰影は、まさしく神々の世界を生きている人々が、その精神を今に繋げていることの証でもあり、その写真の数々だった。ならば写真のなかに写しだされていた「精神」とは何であったのか。写真家が魅せられた魂の原郷とはなんであったのか。その思いは、さらにそれ以前、同じ「日曜美術館」(20071月)で取り上げられていた沖縄の陶芸家國吉清尚を、普通なら結びつかない組み合わせのなかで不思議と回想させるものであった。おそらくそれは、國吉のなかにある魂の原郷が呼びかけるものであり、その声から連想するものであったにちがいない。
炎の陶芸家として遂には自らの身体を作品として自死せしめるほどの、彼にとって「原郷」であったもの。それはなんであったのか。彼は灯油を被って自らを焼いた。時に55歳。1999年のことである。おそらくそれは、彼が追い求めた沖縄の土の世界が行き着く、辿り着いてはいけない一つの結論であった。釉薬に拠らない焼き締め陶が創る土肌の自然美に、彼は、「源」を見た。自身を捉えた「(土の)美」は、そのまま生命でもあり、その生命を焼くことなしには完結することのなかった魂でもあった。しかし、この懼れるべき生存形態が、沖縄(琉球列島)の原郷からもたらされる魂の「動(あるいは激)」であったとしたなら、写真家比嘉康雄によって写し出された(捉えられた)神女である久高島の女性(カミンチユ)は、まさにその「静(あるいは鎮)」の存在形態であった。
 
「海峡」渡航 朝一番の船で渡った。対岸の知念岬の一角に築かれた安座真(あざま)港と久高島徳仁(トウクウジン)湾を結ぶ高速船である。渡航時間20分。船体に打ちつける波の衝撃音は、予想以上に攻撃的であった。船の速度の所為だけではなさそうである。それ以上に波の力が強いのである。比嘉康雄が最初に渡った頃(1975年)は、まだ安座真港から連絡船は出ておらず、より時間のかかる馬天港からであった。小1時間を要したという。そのためにさらに高く強い波を体験しなければならなった。本島知念岬とは目と鼻の先にありながらも、実は本島と久高島との間には海底に深い溝が延びており、海峡的な速い流れになっていたのであった。比嘉は、その時(最初の渡海時)の乗船体験を次のように記している。

  久高島と沖縄本島のあいだには深い溝があり、そこは海流が速く、とくに冬期には波が荒くなるが、そのときも小山のような大波がうねっていた。船が波のあいだに入ると、波頭が頭上に見える。船が沈んでしまうのではないかと船べりにしがみつき、たまらず見上げると、船長は表情一つ変えず平然としている。大きい波をいくつも越え、大ゆれにやっとの思いで久高島に着いたときには船酔いのふらふら状態であった。渡海は小一時間であったが、時化の海をやってきたせいか、なんだか、遠いところにきたという気がした。
   比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年、123

 船酔いこそしなかったが、揺られたことで「遠いところへきた気がした」との思いは、高速船でも実感される。この深い溝は、海上の波の高さや強さを生むだけではなかった。島の地形とそれによる人々の心の中につくられた方位感のおおもとになるものでもあった。「海峡」による激しい波よって島の西側(本島側)に断崖を延ばしているからである。白浜をつくり、その先にサンゴ礁の礁湖(イノー)を広げる東側海岸とは別世界のこの景観には、島が小さいだけに同じ島とは思えない、隣り合わせの両極性の展開を見せられる思いであった。もし、両者の地形が逆であったとしたなら、はたして「神の島」が創成されていたかさえ疑問である。しかし、島はまさしく神の島であった。しかもそれが小さな島の、特別な仕掛のない時空間のなかに成立していた。驚くべきことは、この無為の自然な姿(島の生活)にもあった。

 久高島の概況 久高島は、沖縄本島の知念岬から約5kmの東海上に浮かぶ隆起珊瑚礁によって形成された、島の面積も1.38k㎡にすぎない小島である。海岸線の総延長は8km足らずで、歩いても3時間程度で一周できてしまう。南北長4km弱、東西幅は最大でも0.6kmほどの細長い島で、標高も17m程度である。起伏はほとんどなく、島の北端から南端までほぼ平坦である。それでも南端の集落域や、それに続く畠地から先の島の大半を占める北側は、樹高の高低差の異なる三階層の風衝植物群落(「久高島カベールの植物群落」県天然記念物)に厚く被われていて、景観は単調でない。島の人口は、平成17年国勢調査時で295人/125世帯数を数え、昭和45年時のそれ(424人/112世帯)と比べると、3割減少している。逆に世帯数では増加に転じている。
地表面は、島尻(しまじり)マージと呼ばれる赤土で薄く被われていて、島中央の「内陸地」には畠が広がっているが、石灰岩が地表に貌を出していて深耕には向かない。また保水性に乏しい陸地には井戸が設けられず、かつては西海岸の崖下まで降りて、石灰岩から染み出してくる雨水を汲んで生活用水に利用していた。島で「井(ガー)」と呼ばれる天然湧水場(水場)である。古からの祭祀用の潔斎場でもあった。
 もう少しだけ島の様子を記しておく。人家は、島の南寄りに偏っており、かつ密集している。沖縄特有の低い棟造りの住宅を、風除けの石灰岩の石垣と屋敷林のフグイが取り囲んでいる。人家以外の公共施設には、小さな郵便局と公民館、久高島離島綜合センター(ただし常駐者がいるか不明)、幼稚園が1園、小学校と中学校が一つになった学校が1校ほかは、来島医師による不定期開院と思われる簡易診療所がある。従来にない建物に近年開館した2階建てのモダンな「久高島宿泊交流館」があるが、素泊まり施設である。スーパー・コンビミの類は(もちろん)なく、3軒の小さなお店があるのみである。食堂はある。交通機関はない。見学は、徒歩か貸自転車であるが、車(普通車)を使った有料の島体験ガイドが行なわれている模様である。因みに、団体客や旅行会社の募集型ツアーはお断り、と案内されている(「NPO法人久高島振興会」HP*)。港湾施設には、本島との連絡港である徳仁港とは別に西海岸の南端に魚港(久高漁港)がある。
島の歴史や祭祀のことを何も知らなければ、俗化していない、素朴な生活感に溢れる静かで長閑な島で終わってしまう。しかし、この島を訪れる人(あえて訪れる人と言い直すべきかもしれないが)は、誰でもここが神の島であることを知っている。なかでもイザイホーの祭が行なわれる島として知悉している。12年に一度行なわれる神女式である。琉球王府が定めた祭祀組織(ノロ制度)に起源があるが、神女(ノロ)の原型はさらに古代に遡ると考えられている。
45日間かけて島総出で行なわれる大がかりな祭祀である。1978年を最後に以後途絶えている。次の1990年段階に神女式の対象となる3041歳の女性が不在であったこと、祭を構成する司祭者に欠員が生じたことなど、複合的な要因が重なったためである。現在では関係図書と記録写真・映画でしか概要を知ることができない。本執筆者もそうした「情報」を介して島を訪れた一人である。
*「貴重な自然が残り、聖域であり生活の場でもある久高島を守る為に、大人数でのガイドはお断りさせて頂く事があります。特に、旅行社等による募集型ツアーの予約はご遠慮下さい。」が正式な案内文(部分)である。
 
 集落内巡(うちめぐ)り 徳仁港を降りて少し上がると、久高島海運事務所の船待合い所があり、自転車が借りられる。同時に手渡された1枚の手作り地図(A4版両面)を片手にまず集落に自転車を漕ぎ出していく。港から見て最も奥側(北側)に一連の祭祀空間が設けられている。始祖にまつわる家々も同様に北側にまとまっている。スタートし出した頃は見通しも利いていた進行方向も、人家の密集した集落の中央部に入ると、入り組んだ道と人家を取り囲んだ石垣で先も思うように見通せなくなる。
迷いながらも辿り着いたそこは、まず集落の二つの重要な祭祀殿の一つ「外間殿(ウプグイ)」であった。祭祀殿(祭祀場)は、「殿」(外間殿(フカマトゥン))と「庭」(ミヤ)からなり、殿の脇には相並ぶように一回り小さい建物が建っている。三山時代(1322年頃~1429年)の一国である中山の英祖王統五代西威王(推定1336年-1349年)の産屋跡と言い伝えられている建物である。殿の中には久高島にとって重要な神々(天の神、太陽神、月の神、竜宮神(海の神)、国造りの神(アマミキヨ神)、穀物の神など)が祀られ、また「大香炉(ミウプグイミンナカ)」が納められている。祖霊と結びつく各家単位の「香炉」の大本となる香炉である。
 外間殿を後にして次の祭祀場に向かう。「久高殿(ウドゥミャー)」である。見通しが利きさえすれば、指呼の間である。ここはイザイホーの主祭祀場である。外間殿と同じように殿と庭からなるが、建物の性格は異なる。まず棟数が異なっていて三棟構成を採っている。一列上に並んでいるが、性格上は向かって左側の一棟と右側の二棟に別れる。左側の一棟は、「バンカンヤー」と呼ばれるイラブー(海蛇。ただし「イラブーウナギ」とも呼ばれる)の燻製小屋である。したがってイザイホーとは直接関係しない。しかし、久高殿を管掌する祭祀家(ノロ家)の権威を象徴する小屋であり、その意味において祭祀場の付属的な小屋と言える。配列上も右二棟とは間がすこし離れて建てられている。
主棟となる右二棟は、共に「宮」であるが、性格はそれぞれ異なる。右端の一棟は、祭祀家(久高ノロ家)で主宰する宮(「シラタル宮」:島の人創りの神)であるが、中央の宮は、イザイホーの祭に占有的な空間となる「神の宮(ハンアシヤギ)」である。現世と他界の中間に位置する宮である。イザイホーの際、宮の裏側に特設される「七ツ屋」と呼ばれる仮小屋がある。この「七ツ屋」を他界として、現世と化している「庭」とを繋ぐ建物(「宮」)である。越境時の時空間を囲い込んだ建物として機能している。神女式に臨む3041歳の女性たちは、この「神の宮(ハンアシヤギ)」への出入りを七度繰り返した後、「七ツ屋」に三夜籠って、祖母霊(ウプテイジン)を体内に容れ、合体して新たに神女となるのである。七度の出入りをはじめ、各場面は極めて厳粛であるが、時にドラマチックかつダイナミックである。この祭の絶対性や超越性をさらに際立たせている。

 ノロ制度と久高島 ところで、なぜ密集した小さな集落空間に二つの祭祀場が設けられているかということ――これには、琉球の歴史が関係している。琉球王国の黄金時代を築いた第二尚氏王統第三代の尚真王(14651527年) による宗教改革(祭政一致政策)の一環として布かれたノロ制度にはじまるからである。ノロ制度とは、首里府の「聞得大君(きこえのおおきみ)」(王妹、後には王妻)を最高位として、その下に高級神女の「三十三君」を置き、さらにその下に支配下の各「間切(マギリ)」(町村)や島々に「ノロ」(沖縄・奄美)、「司」(ツカサ)(宮古・八重島)を置いた神女の階梯的組織である。「ノロ」(及び「司」)」は、土地を給付された官人女性神職であった。久高島では、この琉球王府の定めに応ずる形で、島の血族関係を代表する二家(外間家、久高家)から外間家を公のノロ(「公事ノロ」)とし、久高家を島内の非公式ノロ(「シマノロ」)とした。前者が外間根家(フカマニーヤー)、後者がタルガナー家と呼ばれる島の元屋となる二家である。両ノロ家には「殿」が設けられる。それがシマレベルの祭祀場として現在に至る「外間殿」及び「久高殿」である。
 なお、島では草分けの家(ムトゥ(元屋))を中心に親族組織が派生的に形成され、さらに祭祀組織のそれとしているが、この「ムトゥ」は、古(フル)ムトゥと中(ナカ)ムトゥに分かれる。前者は島の大本となったムトゥである。八家からなり、同家をもとにして後者中ムトゥが析出されていく。一八家を数える。なお古ムトゥ八家中には、上記の二ノロ家以上に古い伝承を有する島最古のムトゥである大里家(ウプラトゥ)があり、場所も御嶽のイザイヤマを背にするようにして集落の最北(最上手)を占めている。現在、無住であるが、建物は島の人々によって管理され、同家の祖霊神(=島の祖霊神)である五穀伝来神話の神*が祀られている(見学も可能である)。この大里家**をはじめ各古ムトゥは、長い年月の内に多くは家系が途絶え、現在(2000年段階の記録で)残るのは、外間殿を傍らにした外間根家のみである。したがって、ノロ家としての伝統もそれぞれ中ムトゥに属する外間ノロ家、久高ノロ家に受け継がれ、同家を中心にしてシマレベルの祭が遂行されている。その両ノロ家も、今や、時代によってもたらされた深刻な継承問題に晒されている模様である。
* 島に五穀を齎したアカツミー(男)とシマリバー(女)の伝説的(神話的)二人である。二人は大里家の住人であったという。
** 大里家には島で最古の家に相応しいノロ制度を遡る伝承が遺され、島全体で共有されている。琉球王朝第一尚氏王統の最後の王、第7代尚徳王(144469年)が久高島を参詣した帰り、島の娘クゥンチャサンヌルと恋に落ちたという言い伝えである。娘との別れを惜しみしばらく島に留まった王は、やがて城内で起こった革命を帰船中で教えられると、悲嘆の余り海に身を投じてしまうが、それを知った娘もまた悲しみのあまり命を断ってしまう。いかにもありそうな「伝説」であるが、比嘉康雄の解釈は一歩踏み込んだ史的解釈を見せており、単なる伝説に終わらせていない(比嘉・上掲書11820頁)。
 
すなわち、ノロに遡る「ヌル」と同時代の神女(超能力者=シャーマン)の役割(特に戦の際に発揮される敵方の戦意喪失を導きだす神力など)に注目して、クゥンチャサンヌルも神力を備えた女性ではなかったかと解釈したのである。クゥンチャサンヌルは、したがって、綴り方を再分解するとヌル・クゥンチャサン(神女・クゥンチャサン)となるが、クゥンチャサンとは国司の意で、クゥンチャサンヌルとは、まさしく「国司ヌル」のことであると説く。そして国司ヌルである娘は、大里家の娘で、現在も同家(同時に島全体)で祀られている。いずれにしても、この「伝説」にその一端が窺われるように、琉球国王の歴代の参詣場所であった久高島と女性の宗教的関係は、濃密かつ深遠である。

ヤマ入り さらに集落内の要所々々を辿りながら一巡した後、集落を離れ、島の北東先端に突き出たカベール岬に向けて、島の「ヤマ」に分け入っていく。景観は一変する。標高にさしたる差はないのに、不思議と高いところにやって来た気にさせられる。中を窺うこともできないほどに植物群落が密生している。あるいは、植物群落が深めた(高めた)孤立感によるものであったかもしれないが、おそらくそれ以上に、御嶽(うたき)の存在感によるものであったのだろう。御嶽「巡礼」を前にした気持の高まりである。気持によって近くも遠くも感じることは日常的で、とり立てて論う必要もないかもしれないが、このように高さだけを足許に感じる感覚は稀である。比嘉康雄の写真の力も遠因をなしていたに違いない。
すこし進むと、今度は大きく切り拓かれた原と畠が広がる。視界の先も四周も植物群落で遮られている。その先は海だと分かっていても、今は土地(「内陸」)の広がりしか目に入ってこない。今度は目線である。高さの次には目路が試されていたのである。
不意を衝いたこの広がりも、しかし、意図的につくり出されていたわけではない。潮風に晒されないためには、耕作地はここに開くしかない。一般的に言って、人の住む処には、土地条件に応じた自然との関わり方があり、それに伴って個別の景観を広げている。それが、時には予知しえない立ち現れ方をとる。それ相応の驚きも伴われる。随所で味わうことである。でもそうした際の驚きとは内容が違うのである。とくに変った景観ではないからである。むしろ「凡庸」でさえある。にもかかわらず、実際以上の広大感が伴う。それが、個別の地上感にも繋がっている。
やはりカミを感じるからなのであろうか。しかし、霊感によるものではない。霊感は強くないし、無いと言ってもいいくらいである。したがって、肌(肌合い)で感じるカミではなく、頭で感じるカミであった。どこが違うのかと問われると、明確には答え切れないが、一度だけ似たような体験がある。出雲だった。感じ方は違っていたが、肌ではなく頭で感じるという感得の仕方(フレーム)では同じだった。その再体験だった気がしたのである。その時も実は別の「比嘉康雄」がいた。引率してもらったのである。その所為だったかもしれないが、相乗効果だったに違いない。
それはともかく、「内陸」を進む。畠の奥に設けられた拝所がある。「ハタス」である。上掲大里家が祀る伝説の二人、アカツミー(男)とシマリバー(女)によってもたらされた五穀の種は、ここに植えられたという。また五穀が入っていた壺も同時に埋められたという。シマリバーの助言でアカツミーが浜(東海岸の伊敷浜(イシキハマ))に流れ着いたのを拾い上げた壺である。最初はなかなか拾い上げられなかった壺である。シマリバーが授けた助言は、身を清めて白衣を纏えばよいというものであった。果たせるかな、それまで容易に手で触ることもできなかった壺(白い壺)は、壺の方からアカツミーの白衣の袖に流れ込むように入ってきたのであった。中には五穀の種が入っており、ハタスに植えられ種は、やがて島に広がったのである。

 ナグルガー その潔斎場が次のナグルガーである。西海岸の岩場の下に設けられた「井」(ガー)である。断崖状である。階段が設けられている。手すりを頼りに下り立つと、背後には岩に打ち寄せる荒い波が砕け散っている。浸み出した雨水が石灰岩の隙間に溜っている。潔斎時にはここで身を清めるのである。今に続く潔斎場である。先細りになった岩の空間の先は、人一人がやっと膝をつけるだけの幅しか残っていないが、却って潔斎場の臨場感を高めている。しかも背後には荒々しく打ち寄せる波音である。潔斎者の心に轟き渡る他界の音である。いやが上にも身が清まっていく思いが高まることになる。
それにしても背後に砕け散る波とその強い波音は、断崖状の西海岸がつくる、現生からの孤絶感を高め、その先に浮かぶ本島との距離感までも実際以上に遠いものにしている。まさしく、死者の崖である。葬られた死者(風葬)が、この島を離れる際の方位(最初の方位)に相応しい断崖を海面上に延ばしている。

 フボー御嶽 ナグルガーから地上に戻り、北に500mばかり進むと、そこがフボー御嶽である。久高島最高の聖域であり、琉球七御獄の最高位として篤く信仰されている。琉球国王が聞得大君を伴って参拝する聖地でもあった。なお、対岸知念岬の世界遺産に指定されている斎場御獄(せーふぁうたき)内に設置されている遥拝所は、冒頭に記したように国王や聞得大君の従来の直接参詣に替わる遥拝所(代替遥拝所)であった。波の荒い「海峡」渡海に危険が伴っていたからである。いずれにしても東方を聖方位とする琉球神話にとって、久高島は琉球のはじまりの地(創世地)であり、なかでも太陽の神と一体的なフボー御獄は特別な聖地であった。
 しかし、大和の国ならば伊勢神宮ともいうべきその場所は、ただ樹高10mほどの聖樹ビロウ(クバ)や、その下層で縫うように枝を伸ばしたアデン、さらには最下層に密生した下草類などの緑の濃い亜熱帯植物群で被われた、切れ目のない一続きの森の一画でしかない。結界を示すような宗教的な地上標識は一切ない。そこに説明板と立入禁止の立て看板が設置されていなければ、場所を特定することはほとんど不可能である。しかし、一切の進入を認めないとする「立て看板*」を目にしたとき、「警告」を前に此処が絶対に冒されてはならない聖域であることを厳しく受け止めることになる。
厳粛な面持ちで立て看板の脇に立て並べられた、見取図付きのフボー御獄の説明板の前に立つ。それでもあらためて特定の範囲を囲った場所ではないことが再確認される。磐座もない。小さな手の平大の依代の石(イビ)が円座の最奥に置かれているだけである。それ以外にはなにもない森の中に円形にぽっかりと空いただけの空間である。森の内側の一か所でしかない。やはりこの局面でも、比嘉康雄の写真が力を発揮することになる。あらかじめ、円形に居並んだ神女(タマガエー)の姿を写真に知っていたからである。見えないその先にも確かな「聖域」を感じることがきる比嘉写真の力(神力)であった。しかも、白衣を際立たせる強い陰影の効いた白黒写真だった。深まりゆく奥行きであった。その眼前に立っていたのである。
沖縄最高位の聖域は、かく島の日常的な自然風景と同居し、同時に日常性の奥に深く引き籠って、「何人たり」との同居を厳しく拒んでいた。許されるのはイザイホーで神女となった30歳以上70歳までの島の女性=神女(神人)(70歳を迎えると退任。退任式はこのフボー御獄のなかで執り行われる)たちだけである。
* 立て看板の文面(表題は「ご協力ください」)は、以下のとおりである。
「久高島フボー御獄は、神世の昔から琉球王府と久高島の人々が大事に守ってきた聖地です。神々への感謝の心と人々の安寧を願う場所であるため、何人(なんぴと)たりとも出入りを禁じます。
                    久高神人・久高区長・島民一同/沖縄県南城市教育委員会」

島の祭祀 年間40回を超える年中行事(祭祀)を執り行う久高島であるが、フボー御嶽で行なわれる祭は、島全体にとって重要な祭祀で占められている。その一つ、「ハンサァナシー」の様子が比嘉康雄によって詳細に記されている(比嘉・上掲書16569頁)。フボー御嶽と神女との関係を具に教えてくれる内容である。同著の記述を大まかに辿ってみよう。
 ハンサァナシーは、年に2回(旧暦4月と9月)行なわれる、あの世から島にやってくる神々の祭である。来臨した神々によって島は祓い清められ、人々には平安が齎らされる。アカハンザァハシー(太陽の色彩を反映した「アカ」を冠にした「明るい神様」の意)と呼ばれる来訪神は、「ムトゥ(草分け家・注)に帰属する神々で、各ムトゥの始祖的神格」であり、祭祀に現人神として顕れて子孫と会うことになる。特別なイザイホーを別にすれば、年中行事でももっとも大きなものの一つで、祭には4日間(準備、迎え、顕現、送り)を要する。1日目の準備(神饌と祭場の準備)を経て、2日目には新任神女を除く全神女がフボー御嶽に赴く。すでに来着してフボー御獄に留まっている来訪神に集落へのお出ましを要請するためである。同要請儀式をンチャメーヌフェ(「神の御前に礼拝する」の意)と呼ばれる。3日目の朝、いよいよ神々の集落来臨である。以下は比嘉康雄の記述を引く。

  3日目にいよいよ神々の顕現がある。午前34時ごろの暗い中で、各ムトゥの神職者はホーイホーイ(神の掛け声・注)の声を発しながらムトゥを出て久高ノロ家に集合したあと、またホーイホーイを連呼しながらフボー御嶽へ行く。フボー御嶽に到着すると、雑事役(ソージャク)が持参した神衣(ウブジン)(彩色神衣・注)を着る。この神衣着装の時点で、あの世の神々アカハンザァハシーがそれぞれの依代となる神職者に憑依合体する。つまり神職者は、各ムトゥの始祖的神格の現人神になる。(改行)フボー御嶽で神歌(テイルル)を歌って円舞した後は、ホーイホーイを連呼して集落に向かう。時刻はまだ夜明け前である。(改行)集落のはずれでは、白装束の神女たちがあの世の神々の一行を出迎え、あの世の神々は神女たちに伴われて外間殿(フカマトウン)の祭場に登場する。

 取材時(1976年)段階でのあの世の神々は、最高神の「東り大主(アガリウブヌシ)」以下4神であったが、戦前では20数神で構成されていたようである。彩色神衣に包まれてホーイホーイを連呼しながら集落を目指すその様(行列の姿)は、まさに壮観の一語だったいう。
 外間殿に到着した神々は、神女が奏でる神歌と円舞のなかで、「東り大主」(女神)の命で各神々が順次神事を行ない、その後、神女に先導されて集落の祓いに赴く。最初は港のお祓いである。ユウラハ浜である。浜での祓いを終えると、今度は二手に別れて集落を練り歩き、集落内を祓い清める。再び外間殿に合流してその日の行事を終える。あの世の神々は、夜、子孫の各々のムトゥに滞留する。同じムトゥに帰属する同族の人々は、始祖神に会うために各ムトゥを訪問し、礼拝する。4日目に神々を送る儀式が外間殿で行なわれ、祭は終了する。

 久高島の神女 すなわち、フボー御嶽とは、あの世から神船で島に来訪した神々の来臨の場であるとともに、神女と神々との身体化(現人神化)が実演・実行される場であった。写真集に「主婦が神になる刻」の題名(副題)がつけられた比嘉康雄の久高島祭祀の写真集(比嘉康雄『神々の古層』⑤、1990年)があるが、まさしく「神になる」の位相は、ただ事ではなく、本土のなしえる域(集落・在町等で執り行われる祭祀の域)をはるかに超えている。次元の違いを痛感するばかりである。
イザイホーを経て神女となった久高島の女性たちは、役割は多様ながら神々と生きる一年を毎日の如く過ごし、70歳で退任するまでの間、神女の日々を再生し続けるのである。生涯が神の中にある、あるいは神のなかに生涯があると言える。しかも驚異的なのは、それが日常生活のなかに平然と同居していることである。
主婦の字義が、一家の主人の婦(妻)であるとしたなら、久高島の神女の世界のなかでは、こう説く辞書は通じない。主(あるじ)たる婦(女)の意味の主婦と読み替えなければならないからである。「根人(ニーチュ)」なるクニガミに列される男性神職者(ノロ家の男性)ほかが存在していても、男性神職者は、終始祭の外で補佐的な役割しか果たさない。神職役を含む久高島の男にとって、補佐的あるいは客体的な立場にしか置かれていないことも、「事」が次元的に創世的なことであるかぎりは、生業的な夫婦間の役割分担を超えた、生得的な範疇に属することであった。受け容れる受け容れられない以前のことである。それにこの島は、ア・プリオリに「女が男を守るクニ」(比嘉康雄、1989年写真集の副題)なのである。人の「知」が生まれる以前に由来する決まり事である。まさに神意に外ならなかった。
祭祀の外縁に置かれ、精神面で生得的に女(神女)に守られなければならないからと言え、島の男たちは海人(ウミンチュ)として独立的な人格を有している。当然男権も有している。しかし、久高島の神女とは、言ってみれば男権を含めた「人権」に超越する存在である。卑俗に釈とられたら話は進まないし、止まってしまうが、今の日本に知らない「人格関係」なのである。この関係を含みこんだ久高島によって繰り広げられてきた時空間がある。かつ永く在った。その世界観と事実が、任意の小島のなかで、小島の範囲内で繰り広げられていたことに立ち往生した――これが今回の久高島体験であった。

「島」哲学 執筆者は、日本を代表する盆地の一つで生まれ育った。正確にはその盆地の周辺の丘陵地帯で。四周を明確な「限り」が取り巻いていた。しかも高い山々は峻厳でその先に他空間さえ感じさせないような独立性を保っていた。それかあらぬか盆地は内向きで、それがために無意識に閉鎖的な気風が育まれていた。今もそうかもしれない。
しかし、これは生れ故郷に限ったことではない。おそらく、列島各地(北海道を除く)は内向きである。外部に対してだけではない。内部に対してでもある。それが長い歴史的時間をかけて日本がつくりだした精神体系である。それがないのである。ないのが当たり前の時空間が、しかも特別の地貌を備えていない普通の自然と同居しているのである。峻厳な山岳も神秘の湖も激越の瀑布もないなかでの事態である。
特徴的なのは、綺麗な海に取り囲まれた小島だということだけである。しかし繰り返せば、その水準にしても他を差別化できるほどに特別なわけではない。むしろ、琉球弧における碧い海の水準では平均的である。それに沖縄本島から56キロ先程度の地理的条件では絶海性の意識も育たない。本島周辺の小島でしかない。島外だけでなく島内に育まれた地理的感覚でもあったはずである。その条件下で創りだされた、本土的な「限り」とは縁遠い精神世界が、今に引き継がれていたのである。「限り」の民俗とは異なる時空間を創成したのは、一義的にはカミ(祖霊神を含む)と共ある精神体系であるのかもしれない。でもそれだけだろうか。「島」であったことは関係していないのだろうか。この思い(「島」哲学)に再び立ち止まるのである。

「民俗」世界 晒されていたのである。たしかに視界を遮るものはなにもない。山も丘もない。山間や丘陵の谷あいに住む人々(「常民」)の民俗から見れば、耐えがたいほどの剥き出し状態である。民俗を構成するような所与の条件下にはない。はたしてこれは「民俗」なのだろうか。すくなくとも盆地世界の民俗構造とは世界の成り立ちが異なる。
構造と言うなら、むしろ「民族」(エスノロジー)に近い。よりパースペクティブであり、同時により身体的である。時空間も遠大であり同時に至近である。合理主義者を困惑させる足りる異種の因子が合一されている。したがって空間性も時間性も単なる非日常を超えてより越境的であり、かつ異界と交感的でもある。カミや魂・霊が視覚化され、隣接的な緊張関係を常態化している。時には同化する。神話空間のダイナニズムの原則が生きている。しかし、それでもなお「民族」ではない。他者ではないからである。隣する世界だからである。同根的に源を揺す振るからである。
ただし、揺す振られるのは、同根が創る逆説でもある。資源的潜在力においてはるかに優勢でありながらも、文化鎖国しか創りだせなかった本土(「島国日本」)に組みこまれている自分たちの存在がもたらす逆説である。島国を枠組みとした文化(日本文化)は、オリエンタリズムに対して互角以上にアイデンティティを発揮しながらも、同根の小島一島によってなんなく相対化され、しかも超越されているのである。訝しく思われてしまうに違いない。相対化はともかく、超越されてしまうとまで言われたのでは。それも理由も明かされないで。なら告げなければならない。思考過程である。思考過程そのものが超越されていたのである。

詩学的立場 「島」の思考過程には普遍が備わっている。詳細を問う前に総体が語っている。如何ともしがたいほどである。一方、日本文化のそれは、歴史過程を経て気がついて見ると、閉鎖的な思考過程を完成時の姿として定位している。閉鎖的な思考過程の先に出る出られない以前の段階である。ネット・メディアの指摘(「より閉鎖的」)は、卑近な一例かもしれないが、それ故に「島国日本」の思考過程の根幹に触れている。グローバル化は、それ自体が思考過程であるからである。しかも異文化的である。閉じた思考過程(アナグロニズム)に親和的な心性は、容易にはデジタル変換されない。される必要もない。そこまで遡らなければならない新世紀的課題に繋がっているはずだからである。
とは言え、執筆者の関心は、もっぱら詩的なものに留まる。詩学の範疇と言い換えてもよい。したがって「思考過程」も言葉としては詩語でしかない。しかし、一次的に「思考過程」の外に置かれている立場(執筆者の立場)にとって、外に置かれていることの自己発見は、同時に自己否定として返されるものでもある。したがって詩学的な立場は、同根に在ることから齎される贖罪感にも似た自己認識によって二重にも揺す振られる故に、さらに強まるのである。その強さが、失われた時間の回復を求めることにもなる。回復とは、自己回復だからである。しかし、自己回復は、矛盾を引き受けることでもある。時間の本質が矛盾だからである。久高島が持ち越したものが、「時間」(古代的時間)であるとすれば、久高島とは「矛盾」を生き続けられる「島」であったことになる。詩学的感動によって向い合う所以である。

内在者の写真 その時、比嘉康雄の写真が「感動」に語りかけてくるのである。地形上、ダイナミックなアングルを期待できない構図のなかで、神女の表情と姿態とそれを包む陰影のコントラストだけで浮かび上げられた世界が、同根に繋がる我々の、「かつてのなにか」を揺さ振るのである。しかも島を訪れて、その白黒世界とは別の総天然色に浸かった後でも、写真が撮り込んだ世界は、より深まりも高まりもするのである。残念ながら同じ1978年のイザイホーの「記録映画」(約100分)には、同じものは感じ取れない。出発点が違うと言われてしまえばそれまでかもしれないが、しかし、記録化の聖性が、禁制への立ち入りにはたして勝るものなのかを考える時*、記録性を前にして、同根者側に立つ者には、「(自分たちの)かつてのなにか」までが冒された思いに囚われてならないのである。
 しかし、比嘉康雄の写真は違う。しかも彼の写真(禁制のなかの写真(フボー御嶽))は、最高位神女(クニガミ)の一人であるウメーギの誘いによるものである。当然のことながら立ち入ることなど思いも浮かばなかった彼の許に、「かまいませんよ」と言って御嶽に招き入れ、祭祀の円座の末端外側に同座を許し、かつ撮影をも許したのである。まだ本格的な交流を開始する前であった。すでにウメーギにとって比嘉康雄は、男子禁制の外に立つ者であったのである。他者ではなかったのである。内在者だった。ウメーギは見抜いていたのである。自分たちの魂を新たな「ニライカナイ」に導くものであったことを。
* 禁制の地や屋の前でカメラを止め、止めたままその先はナレーションに替えていた方が、映像としてもより迫真性が発揮されていたように思われる。記録と言え、「創作」であるからである。

おわりに~真正な体験~ 久高島を体験するとは如何なることであるのか。今では現地訪問という直接体験だけでなく、ネット上でも間接的な訪問(ネット訪問)ができる。沖縄県や地元南城市のホーム・ページ上のそれも丁寧な内容で、知識だけでよいなら現地訪問以上のものを授けてくれる。しかも知識によってもたらわれる体験は、それはそれで一回性的な体験(ただし擬似体験)でもある。単なる旅行案内書での誌上体験に終わらない。以前なら考えられない体験(デジタル体験)が、我々のデスク上に瞬時に齎らされる。これはこれで「現実」(リアリズム)である。
 しかし、ネット体験はくまでもネット体験である。最初から限界がある。断るまでもないことである。誰しも限界を折り込んでパソコン画面を開くのである。それでも知識は次の知識との間で連携智として増殖していき、やがて当初の前提事項(折り込み事項)も上書きされて元の姿をとどめなくなる。別に内部体験者が誕生し、可視者となって未体験者に取って代わるのである。極めつけがバーチャル・リアリティーである。別に情報論やメディア論に言及しようとしているのではない。否応なしに「体験」の位相が問われる時代だからである。しかも、ますます本来的な体験を自覚する機会が失われていく(希薄化していく)日常生活を思うからである。もしそれ(今回の体験)が、沖縄本島に留まっていたなら、誤解を招きかねない言い方かもしれないが、ネット体験と実際の体験との違いに決定的な落差を感じていなかったかもしれない〝マヒ〟を思うと時、久高島体験に体験とは別にメディア論の本質にも繋がる問題(日本(人)論)を知らされたのであった。
いずれにしても、実際に訪問していなかったら、上記した同根的な揺す振りに晒されることもまずなかったにちがいない。それ以上に「島」の意味を教えられることも。もしこれが、「真正な体験」に連なる一つの機会だとされるのなら、「真正な」を常にキー概念とする、未来の矛盾を見抜いていたベンヤミンの複製時代論(アウラ的存在様式論)を実習していたことになっていたのかもしれない。〈いま―ここ〉を本質とするアウラ体験である。

[付] 本稿の多くは、比嘉康雄の著書(『日本人の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年)に導かれて記したものである。全編を通じて志の高さに貫かれている。ブログ執筆者の若い知り合いにも「島」の体験者がいる。高い志に生きる一人である。この先の「健全」(尾崎翠「太田洋子と私」昭和16年7月5日付『日本海新聞』)を祈りたい。