2012年5月31日木曜日

哀悼 吉田秀和

初出:2012531日木曜日(旧題[あ]4 哀悼 吉田秀和)  ラベル付替え:2019年4月24日

 522日(午後9時)、音楽評論家の吉田秀和が亡くなった(急性心不全)。98歳だった。新聞等で公表されたのは528日だった。広く知られているようにその評論活動は音楽にとどまらなかった。美術ほか芸術一般で文学に及んだ。豊かな文学的資質を兼ね備えた戦後最大級の芸術評論家の一人だった。
 しかも机状の評論にとどまらなかった。実践派でもあった。戦後間もない1948年には、その後の日本西洋音楽の向上に大きく寄与した「子供のための音楽教室」(桐朋学園大学音楽部の基)を創設し、立て続けに現代音楽の向上を目指した研究所(「20世紀音楽研究所」)を立ち上げた。その旺盛な活動歴は晩年にいたっても衰えるところを知らず、水戸芸術館の初代館長就任(1990年)を機に同館の付属楽壇として水戸室内管弦楽団(顧問小澤征爾)を設立するにいたる。そして、その間、多くの俊英を世に送り出し、見出しもし、戦前期と一線を画す日本西洋音楽の芸術の深化に心を砕き、多くの著作をなし(『吉田秀和全集』白水社)その筆を終生擱かなかった(ただし朝日新聞での連載「音楽展望」は昨年6月で終了(大震災を内的に受け止めて下した一つの表現方法(連載終了))。
 
 音楽理論を超えた音楽評論だった。耳ではなく「言葉」で聴いた音楽の評論だった。文学から美術にわたる広範な内省が音楽評論と重なり一つとなていた。叙述法は最初から「文学」の域に達し、あるいは超え、独自の境地を切り拓いて最晩年の「言葉」は「生命」との交感に触れて、生きていくこと(生きていること)の「今」をその淡い光で満たしていた。

  ここに氏に深い哀悼の意を表するのは、音楽的体験とともに、この「生命」を早々と教えられた個別の体験(文学的体験)によるものである。かつて、吉田秀和のエッセイ(「吉田一穂のこと」)によって「北方志向」を強く植え付けられて以来、氏の文章は、それが音楽評論の場合であっても「北」と響きあう基音として体内にとどまり続けた。その体験故にである。

 手許に一本の録画がある。「芸術劇場」(HFK2)で放映された小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケスラの「マタイ受難曲」(『小澤征爾のマタイ受難曲』)。放映日は1997112日。恒例になったサイトウ・キネン・フェスティバルのその年のメイン・プログラムである。公演日は、放映日を約2か月遡る97日、演奏会場は長野県松本文化会館。そして、その日の「芸術劇場」の解説者が吉田秀和。
 その年の同フェスティバルのための1曲ではあったが、同時に先年亡くなった武満徹への鎮魂曲として演奏されたものであった。武満徹が、日頃、小澤征爾に対して「マタイを振ってもらいたい」そう言っていたのが生前には果たすことができなかったからである。武満徹は、自身の作曲に際して「マタイ」から1曲(アリアなど)を選んで聴くのを習わしにしていた(著書にそう書かれている)。バッハの音楽に構想を得ようとしていたというより、作曲に立ち向かうために必要な「音楽の魂」を自らに再生するためであった。バッハの音楽とりわけ「マタイ受難曲」は、神が遣わしたごとき音楽であったからである。

 吉田秀和は、このエピソード(武満の依頼)を解説の冒頭においた。これから放映される「マタイ受難曲」に寄せる小澤征爾の想いを代弁するためであった。吉田秀和は代弁者としての自身に気持の昂ぶりを覚えていた。
 ともかく小澤征爾にとって吉田秀和は恩師中の恩師のような存在で、今回の訃報にも「吉田先生がいなければ今の自分はない」(某紙)と語っている。小澤征爾の解説に特別な思いを込めることになる背景(二人の関係)である。また武満徹との関係も深い。武満徹は、吉田秀和(所長)が率いる「20世紀音楽研究所」の作曲コンクールに入賞(1958年)を果たすと、その後、同研究所へ参加することになるからである。

 したがって、吉田秀和にとってその日は、特別なテレビ出演だったにちがいない。だからかもしれない、公演経緯(のエピソード)の披歴に続いて行なわれた楽曲解説で、その(神から遣わされた)偉大な音楽の解説をこうまとめたのである。

「もし、この世(地球)が終わることになり、違う星に移らなければならなくなった時、1曲だけ持っていっていいと言われたなら、いろいろと迷うかもしれないが、僕はやはりこの曲(『マタイ受難曲』)を選ぶだろう」(大意)と。

 あるいは自身の年齢(その時83歳)を慮って音楽的遺言(の一つを)を言外に含ませていたのだろうか。いやそうではなく(永遠の青年(”文学青年”)であった吉田秀和にとって)、その意味するところは、武満徹がそうであったように(武満とは言い方を変えて)、バッハ(の「マタイ」)に芸術の深淵を覗きこんでいたからであろう。永遠の命をと言い換えても構わないが。

  ――哀悼 吉田秀和

今宵は宇宙に旅立たれた氏の御魂(「芸術の魂」)に向かい、地上からも氏が1曲として選んだ「マタイ受難曲」を流そう。CD化された小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ版(ただし第2夜版)で。

アンサンブル―二つの「人間集団」(補訂版)


初出:2012531日木曜日  補訂版:2019年4月23日火曜日
   アンサンブル二つの「人間集団」

序奏
 先週(201252125日)のNHKFM「ベストオブクラッシク」は、2002年に90歳で世を去った不世出の大指揮者「ギュンター・ヴァント生誕100年特集」(『ベストオブクラシック 〝北ドイツ放送交響楽団の貴重音源~ヴァント生誕100年~〟』)。北ドイツ放送交響楽団を振った一連のライブ録音(ハンブルク・ライス・ハレ)である。

ギュンター・ヴァント(19122002)と北ドイツ放送交響楽団との付き合いは、1982年の第4代首席指揮者就任以来のもの。1991年から亡くなるまでは、名誉指揮者として関わり方は客演指揮者的になったものの、最後まで首席指揮者当時と変わらぬ数々の名演を生み出したオケ。その両者によるブルックナー(7番から9番までの3曲)が3夜(201252325日)にわたって厳かに響き渡る。3曲とも最晩年の演奏(19994月・20004月・同年11月)である。「究極の音楽芸術」としてあえて誇張した解説に拘ったのは、当夜の案内役(解説役)であった音楽評論家広瀬大介。そして、彼のヴァント演奏への拘り(心酔)に賛辞を惜しまない、「究極の音楽芸術」を共有したいとして心を露わにしている一視聴者。

でもヴァントを取上げたのは、とかく剥き出しになりがち心の内を、そのために結果として一過性に墜してしまいがちな折角の高揚感を、言葉によって抑制的にオブラートし、再度心の内に仕舞いこんでおきたったからだけではない。それとは別に「究極の音楽芸術」を可能にしたアンサンブルそのものに強く惹かれたことがある。そこにあったのは「人間の奇跡」であり、聴いたのは、ブルックナーの名演であると同時にアンサンブルが生んだ「人間の奇跡」であった。

しかもカタカナといえ『あ』音ではじまる「アンサンブル」。そのアンサンブルに立ちはだかるブルックナーの交響曲。作曲者ブルックナーの名前はアントン・ブルックナー(『あ』音)(ただしフルネームではヨーゼフ・アントン・ブルックナー)。そして、我々にとってブルックナーと言えば、いうまでもなく今は亡き朝比奈隆(2001年没)。陸続する『あ』音。

でもまだ終わらない。アナトリア高原にアレキサンダー(アレキサンドロス)大王へと続く。ブルックナーの音楽と内的連関を保つとされたこの二つの『あ』音。でもこの『あ』音に関しては理由が示されなければ唐突な感は否めない。個人的な体験談なので直接関係しないことと断って先を続けてもいいが、一言しておけば、荒涼としたアナトリア高原こそブルックナーランドと考えた人間(ブルックナーに人生を奪われた一人の人間)がいたこと、その彼が、交響曲第8番ハ短調(「破綻調」)をして、小アジアから中央アジアを舞台にしたアレキサンダー大王の東方遠征の人生(進撃と退却(無念の退却))と大王を遡るもう一つのクセノフォンの宿命のアナバシスとを重ね合わせた壮大な楽曲とした壮大な構想を打ち立てたこと、そしてかつてその文章(「『破綻調』アナバシス」)に驚異的な思いで接したことが思い起こされた『あ』音であったということ。

 
* 本稿は、五十音順にはじめた筆者開設ブログ『インナーエッセイ』の「あ」のその3に該当している。「『あ』音」とはそういう意味である。



1楽章

524日(木)はブルックナーの交響曲第8番。金管の音が全体に大きいブルックナーの交響曲のなかでもとりわけ金管の高音の響きがクライマックスを高く奏でる一曲(大曲)である。指揮者は拳を握った片手を高く掲げてオーケストラを鼓舞し攻めたてる。金管奏者は、一様に頰を膨らませ続けて顔面を紅潮させる。肩で大きく息をして「握り拳」に向かってさらに息を吹きこみ、長大にして強大な音を総量として楽器から響き渡らせる。

そのようにしてかつて多くのブルックナーをブルックナー・ファン(同時に朝比奈隆ファン)は聴いてきた。朝比奈隆のことを「我らがマエストロ」と呼び合った。ファンの多くは朝比奈隆と大フィル(大阪フィルハーモニー交響楽団)による東京公演には欠かさず足を運んだ。朝比奈と大フィルが創り上げるブルックナーに心を奪われた。ブルックナーにしか聴けない音の塊量(マス)を求め続けた。そしてファン以上にマスを追い求め続けた朝比奈隆は、人々を圧倒的な量感で包みこんだ。

かつてのそうした東京公演の一つとして聴いた東京カテドラル聖マリア大聖堂でのブルックナー(1983(昭和58)913日)を、しかし筆者は批判的に受け止めた(聴いた)。響きが教会堂の天上の高みに吸い上げられて耳元にとどまらないし、残響が長いために時として反射音で混濁し、あるいは打ち消し合って希薄化し、朝比奈隆特有の絞り上げた音がその拳から逃げ去ってしまっていたからである。

敬虔なカトリック信者であったブルックナーにこそ相応しいとして企画された東京カテドラルでのブルックナー。しかも曲目は第7番。リンツ聖フローリアン(ブルックナーの亡骸が眠る教会堂)で行なわれた朝比奈隆&大フィル欧州公演(1975(昭和50)年)での演奏にまつわるエピソード(第2楽章の演奏終了を待っていたかのように鳴り響いてきた教会堂の鐘楼の音とその鐘の音が終わるのを待って開始された第3楽章に纏わる思い出話(朝比奈隆『楽は堂に満ちて―私の履歴書』日本経済新聞出版社、1978年)』)を彷彿とさせる会場。神へ捧げられた音楽であるブルックナーの壮大な交響曲の実現。そのようにも書かれ讃えられた公演(東京公演)。しかし、「そこには真のブルックナーは鳴っていなかった」(筆者による身内雑誌(『原始霧』浦和ブルックナー協会)への寄稿文の一節)――ずいぶん時間の経ってしまった話だが、ヴァントを聴いて、ブルックナーに熱かった頃の(若い)自分が思い起こされたのである。

なぜなら(昔を思い出したのは)、ヴァントの響きはそのカテドラルの「音」だったからである。かつて批判した響きだったのである。しかし批判(否定)が誤っていなかったことを再確認させる演奏でもあったからである。と言っても以上はすべて逆説であり、真実はまさしく解説者広瀬大介が躊躇いもなく公然と告げなければならなかった「究極の音楽芸術」にほかならなかった(正確には「人間が創り得る究極の音楽芸術」)。そして究極の達成を媒介したのが音の響きであった。ブルックナーの立場に立てば、人の世(カテドラル)に鳴り響く音色とでもいうべき類。しかもこれまで人の世に鳴り響いたことのなかった、鳴り響くことのありえない音だった。それをかつてのカテドラル演奏に逆説的に聴いたのである。

ヴァントは客演を繰り返す指揮者に批判的だったという。求める音を響かせることが至難の業であることを誰よりも知っていたからである。もちろん第一線の錚々たる指揮者なら誰だって知っている、客演先のオケからそれを抽き出すのがいかに難しいことであるのかぐらい。でも積極的に客演する。だからといって商業主義とはまるで次元が異なる。オケにとっても指揮者にとっても創造的な芸術的な音楽行為の一環である。それに出会いでもある。更新的であるということもである。ヴァントにだって分かっている。それにヴァントだって客演している。日本でも客演している(初回は1968年の読響、ほかN響と3度(197983年))。分かっていて言うのである。自分に向かって言っているのである。言いながら追い求めている音楽(音の響き)に改めて向き直っていたのである。まさに広瀬大介を茫然自失させた響きに向かってである。

公共放送(しかもクラッシックの居城ともいうべきNHKFM)で音楽評論家がそこまで言い切るには理由がある。視聴者の気持を代弁しなければならなかったからである。解説者では足りなかった、代弁者でなければならなかったのである。なるほど、解説の域を超えていた、解説しえない音の響きだった、たしかにそういうこと。そして、評論家として客観性を問われかねない言辞をあえて吐かせた。評論家であるより視聴者と共有していたかった、自らも一視聴者でありたかった、そうなるしかなかった、そういう音楽体験だった。
事実、そういうふうに音が鳴る(鳴っている)こと自体が奇異なことだった。ウィーン・フィルやベルリン・フィルの音色に酔わされるのとは違う種類だった。そういう意味では楽団の(伝統の厚みに支えられた)力量とはすこし性質の違うものだったし、所謂「(その)オケの音色」なる言い回しでは説明し切れないものだった。素っ気ない言い方だが、ただ単に鳴ったことのない響きだった。実に簡単で原因も明白だった。しかし、簡単で明白だからこそ茫然自失にまで突き落とされる。人間の感性は複雑な一方で実に正直で単性的にできている。しかし単性的であるのは、突発的で刹那的な場合の「所与」向きであり、持続性が必要な場合となると持ち堪えが利かなくなる。

しかし、ヴァントのブルックナー8番(8番に限らないが)ではそれが約80分間も続くのである。どこかの小節で偶然(突発的に)実現されたのとは訳が違うのである。剥き出しにされた感情(単性的感情)が1時間以上80分にわたって曝け出され続けるのである。人間の経験としてあり得るかあり得ないかの問題。答えは簡単である。あり得ないのである。レトリックの勢いに流されていないでもないが、一先ずはそういうこと。

残念ながらその響きを言い表す術を知らない。かりに朝比奈隆のブルックナーと比べたなら朝比奈が追い求めた重厚さとは趣が異なるもの程度の判断はつく。だから朝比奈の背後にある戦前のヨーロッパの指揮たちが創り上げたロマン主義的な音楽(たとえばフルトヴェングラー)に少なからず心を奪われてきた立場からすると、まるで予想外の音の響きである。しかも厄介なことにヴァントの音の響きも、それ以上にドイツ・オーストリア系の重厚な楽音の極みに照準を合わせているから余計にである。

しかるに第二次大戦前の演奏スタイルと言えば、強弱を際立たせて音をうねらせ、時にはめくるめくように直走り、転じては最弱音に沈む。その折のオーケストラの楽員たちを想像するに(昔、記録フィルムを視聴したことを思い起こせば)、果敢に攻めまくる指揮者の前で大きく揺れ動き、ピアノで凝縮し、瞬時に上体を起こして全合奏(トゥッティ)のフォルテに雪崩れこむ。大仕掛けとさえ言えるほど。しかしオーケスラの(最初の)黄金時代に相応しい舞台上の律動感でもあったはず。

仕事の関係で演奏会にあまり行けなくなっていた頃、ヴァントと北ドイツ放送交響楽団の初来日が実現された(1990年のこと。再来日2000年もまた然り)。その際のヴァントの指揮振りも北ドイツ放送交響楽団の演奏振りも知らない。鳴り響く金管奏者の息継ぎの様、弦パートの弓の弾き方・撓り方の程を基に綴ることはできない。あるいは管楽器の奏者は大きく肩で息継ぎを繰り返していたかもしれない。弦パートの奏者は奏者で弓の強さと一つになって上半身を大きく傾けていたかもしれない。全合奏も然り。膨れあがる音に煽られるようにして躍動感を舞台に惜しなく繰り広げていたかもしれない。

でもステレオから鳴り響いてくる音は、オーケストラの実演振りを再現しない。拒んでいる。既存の音ではないからである。往年の音なら音だけでも奏者の演奏ぶりが身振りとして浮かび上がる。でも音が違う。したがって身振りと一体的な奏法だって違うはずである。そうでなければ、全合奏に「マス」とともに「ディテール」が同時実現されるはずがない。結果として姿が浮かばない。往年の演奏に限らず同時代的にも事例を知らないからである。

音が消えるべくして消えない。聴き分けられるはずもないのに聴き分けられてしまう。オーケストラ(の響き)を知っていれば知っている程に、そうした音楽の専門家の耳を怪しませる音色の深淵。それがその夜の音の響き。パート合奏が、本来なら全合奏に埋没するはずが、そうならずにときに全合奏を凌いだ如きブルックナー。そして、それがためにより厚く響くアンサンブルの全体性と奥行。アンサンブルの深窓に集った奏者たち。厚い響きだけを届けてその奥に隠れて見えない顔でやり過ごす楽団員一人一人。それ故に果てもなく想像力を掻き立たせて巨大化して止まない音楽的宇宙に茫然とするしかないその夜の一人となるしかない者――ヴァント体験とは、そういうオーケストラ体験(内部体験)をも併せ持ったものだったのである。


 第2楽章

ところで「ヴァント生誕100年」の特集に予定外に踏み込んだのは、その音の響きに驚嘆を隠しえなかったにしても、それだけではない。「音楽時評」はいわば前置き。以下はもう一つの「人間集団」とそのアンサブルの話。
 
 その人間集団とは「CC」と呼ばれていた人たちのことである。数か月をかけて地球を一周する船舶ツアーで、乗船者の船内生活を充実するための各種講座や、寄港地先の現地ツアーの際に通訳者の任を果たすCommunication Coordinatorであってその頭文字をとって「CC」と呼ばれている。構成員は全員で12名(ほかにリーダー(裏方)が1名)。男女比は男性3の女性9名で2.57.5。年齢は20~30代。日本人が多いが英語圏・スペイン語圏のメンバーを含む混成チーム。ただし他国籍者と言っても日本国内での実績を引っ提げての乗船で、信じられないほどの短期間で日本語をマスターした逸材ぞろい(その逆もまた真なりで日本女性の英語習得も驚異的なもの)。

出航後、最初に行なわれる様々な船内行事。そのなかの一つであるスタッフ紹介。事務局員やクルーの面々そして最後に紹介されたCCたち。最初から事務局員たちとは異質な印象を受けたが、後日、別の機会に設けられた自主企画的な自己紹介を経て、異質さは驚愕(脅威)に転換――それが表題の背景をなしている。

英語圏のCC1名は、両親が東洋人であったこともあり顔立ちは日本人。そのほか米国人の父親と日本人の母親を両親にもつCC1名参加していたが、彼女の日本語は「ネイティブ日本語」。したがって「日本人集団」ともいうべき「CCs」。会場に詰めかけていた乗船者の年齢は、シニアを中心にCCと同世代の若者たち。若者では女性が圧倒的に多い。
 
会場(イベント会場)に参集した人々の見守る中で行なわれる個人別の自己紹介。多彩な経歴の持ち主のオン・パレード。しかし、経歴披歴に際しても特別なことをしてきたというような気負いもなく平然たるもの。今から思うと登壇順に取り決めがあったのかも知りたいところである。なぜならトップに立ったのが米国籍のCCであったからである。かりにその起用を前向きに捉え直せば、会場との一体感を手っ取り早く得るためであったのだろう。これは彼女の豊かな表情、身振り、話振りに期待するところが大きかったとの推測に拠ったものである。あるいは彼女自身による自発的な名乗り出だったのかもしれない。自発性も抜きん出ていたからである。
 
それはともかく、期待は瞬時にして実現される。彼女の天性とも言うべき資質のなせる業。しかしここで問題発生。惹き寄せられたとしても一体感とは微妙に違うものだったからである。しかもその原因が彼女のレベルの高い日本語力にあること。日本語を通じて体現された彼女の資質そして資質に裏付けられた全身的な魅力であったこと。「問題発生」とはそういう意味である。

したがって英語での自己紹介だったなら問題なかった。大きな身振り、全身で発散する感性、明確な言葉遣いと豊かな表情(と口許)は、まさに米国人の特権である。惹き寄せられたとしても異言語文化として自分を外に置いておけるもの。距離を保てる手合いのもの。でもそうならなかった。日本語だったからである。違和感のない感情をくるむことさえできる日本語力だった。まさに顔立ちがそうであるように「日本人」の日本語だった。自分たちと同じ。同じ側にいる子。

それなのに表現力だけが違う。異質のプレゼンテーションである。人格と背中合わせになった個性的なもの。ご婦人方を襲った未知の「人格」。立ち入り難いもの。自分たちの居所を失わせかねないもの。幸いだったのは、彼女がまるで日本に居る自分の娘のように可愛い子だったことだ。彼女との距離を埋めるにこれ以上手頃なものはない。「人格」との正対を不問に伏して納得的に囁き合う、「ほんとに可愛い子!」と。実際、彼女への語りかけは、自分の娘に語りかけるような最大限の親しみを籠めたものだった。そして、彼女はご婦人方のアイデンティティに優しく微笑みかける。極めて自然に、ナチュラルに。

と言っても個々の関係形成は後日のこと。会場はいまだ自己紹介の先行きを見つめ続ける緊張感で時間を止めてしまっている。確かめなければならない。最初の「日本人」が鮮烈な〝デビュー〟を飾ったからである。
 
それにしても実によくできた順列であった。やはり適度に演出していたのではないのだろうか。そうでないとしたならCC各自に自然と演出力が備わっていたにちがいない。登壇前の「危ぶみ」(次の登場者を待つ、読み切れない先行きによってもたらされた緊迫感)は、新たな驚きに転じて人々の判断停止に働きかけていたからである。
 
次のCC。一見受け身な感じで進行役の質問にも必要以上の答えには打って出ない。最小限度で慎ましやか……。和様? と思わされたのも一時。必要最小限度に答えられていく中身を反芻すれば、たちまちして“反和様”が露見。外国育ち(所謂帰国子女)は構わない。問題は帰国後。とくに「安定期」に入った社会生活(20代後半)からの一気呵成の離脱と自己発見に向けた挑戦的な長期海外渡航。しかも「というところかな」とマイク片手にいとも簡単にまとめ上げる平然さ。無機質さ。同じ日常生活の裡、その周辺、よく言ってもその周辺然とした物言いにして物腰。「あなた日本人じゃなかったの(!)」とはご婦人方の内面を憶測し代弁したもの。

「兵揃い」では済まされない、ということであった。「他者」ではないからである。二人とも「日本人」なのだ。でも人格に遡ると国籍事項を超えている。帰属関係が意味をなさない。それなのに肝心なこと(一線を超えた行動力)に対して無頓着。言い放し。彼女らにしてみれば当たり前のことかもしれない。でも「日本人」にそんなに容易く了解できるわけがない。でも次の展開も大同小異。同じことが、結果として矢継ぎ早に繰り出されてくる。
 
内に強い意志を秘めて眼もとに理知の輝きを溜めたCC、そして彼女の直向きで実直な活動歴と強い人生。言語(「日本語」)以上に表情や表情と一体になった感性がバイリンガルでそれが輝きを放つCC、そして彼女の「日本人歴」が放つもう一方の未知。このように次から次へと続く、怪しむべき程の経歴と経歴に裏打ちされた彼女たちCCの今現在の顔。対照的に興味本位な思いを内にしまいこむしかなくなる人々。
 
一時代前の日本人の愁いを帯びた横顔を覗かせて一瞬人々を安堵させ日本回帰に舵を切らせながらも、やはりと思わなければならない彼女のなかに同居する異質、そして異質の先に大海原を浮べるCCの眼。そのインテリジェンスだけで都会のなかに居場所と活躍の場を保障されるはずなのに、(日本の)都会の日常に留まる自分(の停滞)に我慢できずに自分で自分の背中を押し続けるCC。最初からターゲットを海外に絞ってその絞り込み方に無理がなく、平然とかつ飄然と異国に生活拠点を置いてその生活と同化しているCC。彼女たちから披歴されるメニューの数々を物珍しがっている時間はもう過ぎた。いまや意味は、自分たちとは別な個体(人格)を前にしていること、その前に連れ出されてしまっていること、整合性を自らに験されていること。
 
海外で暮らす日本女性をTVは取上げる。観たこともある。でもTVのなか。それに脚色が働いているのでもう一つの「テレビドラマ」に留まっていて、感心させられても明日の話題の一つでこと済む。自分の娘がそうなるとも考えていない。でも眼の前のCCたち。娘たちと同世代。彼女たちCCには日常であっても自分たちには非日常でしかないもの。しかも日常と紙一重の「非日常」。紙一重ではTVで取上げないかもしれないが、ドラマではない目の前の現実。この会場――両者間に距離のない「ナマドラマ」。


3楽章

全長約240mで総トン数約38,000tの大型客船。間違いなく数か月を共にする人たち。しかも自分たちの案内役。これから耳にも目になり口にもなる自分たちの代弁者。仲介者。でも違う人たち。違う人間存在。こうして彼女たちから打ち解けようとしてくれているのに。自己紹介の場を設けてくれているのに。でも落ち着かない。どう受け止めればよいのか考えると混沌として不明裡のままで何処にも行き着かない。

たしかに理性では人間の感情(不安)は抑え込めない。自分たちの人生経験の意味が問われているということであっても、問われているという認識さえ浮かばないから。それに理性が呼び戻されたとしても事態の深刻さには気づくわけがない。大体それが深刻と受け止めるべき範疇なのかさえ同定できず、設問自体がそもそも未分野領域から発生しているから。自己同定できるのは自己紹介が続けられているということ、聴く側であってもイベントに参加する一員であるということ。相応に応じなければならないこと。

でもそれは追い打ちを掛けられることであって、止めを刺されるに似た「参加」だったことを、とりあえず後日の理解に委ねていただけのことでもあった。実際、自己紹介の後半も前半に劣らずに人々の整合性に揺さぶりをかけるのに申し分ない「打線」(ライン・アップ)だったからである。

CCsのなかでは先輩格の女性。豊かな人生経験を潜ませてほかのCCを立てるかのような控えめな自己紹介。でももう騙されない。自分たちに近しい「大人」の感じを滲ませていても(内面からのものであるにしても)、きっと違う日常を生きていて、経験でそれを目立たないようにしているだけ。「キケン」さえ仕舞い込めるほがらかな笑顔。でも横顔には真実が(見えていて)。やはりね……ともはや年の功を積んだご婦人方に先回りされてしまう。

二組のCCカップル。一組目。女性CCの強烈な個性。剥き出しで攻撃的で畳みかけるような説法にも似た舌先(ぜっせん)。ヘルメット被らせてタオル口許に巻いたらたらそのまま新左翼のアナーキーな女闘士。誰が予想しえただろう彼女の「過激」を。前世紀20世紀の終盤のこの日本で育った個性(!)の程度で済ましてよいのだろうか。彼女の過激は日本では収まらずに米国までも互角に相手取って、選ばれたパートナー(CC)とこの船上にいざ見参といった勢い。

二組目。国際色豊かな家庭環境で育った女性CC(上述)。パートナーのCCとともに世界的な先端企業からナチュラリストに転じて日本の大自然のなかでの自活の日々。一見すると「山の手」のご令嬢。しかるに畠仕事に汗を流す泥んこの素顔。第一印象から窺い知れない逞しい根っ子を持った芯の強さ。そして「テツガク」の保持者。パートナーとの自活生活は日本人でも真似できない水準。それを身の丈を弁えて背伸びするでも肩を怒らすわけでもなく慎ましやかに行なって今や定着期。船内の若い女性の憧れの的となる、パートナーとの半永続的な新婚振りもさることながら、侵犯不可能な二人の「非日常」にご婦人方はつくづくと溜息(脱力感)。

この二組。片や米国内カップル。片や日本国内カップル。逆転したような乗船前現在(地)関係。それがカップルの非国籍性をより強める。二組であったことはおそらく偶然。でもその偶然が、単身形態のCCに負けず劣らずに「異質性」を倍加させていた。しかも結婚形態のあらたな定量化にも寄与していた。でも船上であってよかった。ご婦人方にとって結婚形態まで脅かせるのは尋常なことではないからである。と言ってもこの船、多彩な(個性的な)ご婦人方を多数乗せていて安易なことは言えない。

いずれにしても下船後は太平洋を挟んだ両サイドで演じられる別々の結婚生活。しかし今は同じ船の上。同船者となったのは偶然の偶然のそのまた偶然。この両カップルを含めて邂逅すべき邂逅として集結したCCs。現ポジションを離れて船上で同一チームになったこと。この人たち、女性CCsに押しまくられて立場を失いかねない(?)男性CCsだって並みの男性たちとはとても思えないが、ここではともかく女性CCたち。王冠のように彼女たちに被せられる「CC」という「称号」。偶然の邂逅を遡って持ち寄った各々の「源」。プレイヤーとしての同質性。同質性が奏でる響き。指揮者にして奏者でもある「人間集団」。もう一つのアンサンブル。


4楽章

こうした対比が妥当かは分からない。ただここで筆を擱いてしまったなら何のことか分からなくなってしまう。しかし両者を連携させるのは簡単ではない。見るからに外面が違うからである。オーケストラとCC。それでもあえて対比的に取上げたのは、外面的な違いの大きさがかえって体験の特異性を際立たせるからである。なぜなら人々は外面性のなかで日常生活を送っていて、外面性は見込みの範囲内に収まっているからである。

オーケストラでも同じである。コンサート体験が豊富であれば豊富である人ほど、それが超一流のオーケストラの場合であっても、その場の感動が既存(の感動)をすっかり上書きしてしまうわけではない。なるほど感動はその都度新規なものであって、とりわけ歴史的名演奏ならその絶対性は唯一無二のものかもしれないが、それでも既存を前提にしている点では見込みの範囲内である。次の名演奏で更新されるのである。折角の感動を貶されたと異議を唱えられるかもしれないにせよ。

しかるにヴァントと北ドイツ放送交響楽団の響きは、既存から量れる範囲を超えていた、というより既存それ自体を覆すものであって、したがって既体験を超えたところに聴こえてくる響きだった。真正の驚きであったわけだ。ただし驚きが必ずしも感動にそのまま直結するわけではない。感動を最終目標とすれば、驚きは感動に辿り着く方法の一つであって、驚き自体が最終目標ではない。にもかかわらずヴァント体験の驚きに限って言えば、驚きだけで成り立つ次元であり閾だった。それが事の真相だった。そして、CCという人間集団から受けたそれでもあり、両者を連携するものだった。そういうことだったのである。

それでも人間のことを語るのは容易でない。それに人と人との関係には更新が付きものである。今度はCCのこと。あらたな局面を得てCCと個別の関係を築きながら人々は当初の「距離」(「自己内距離」)から遠ざかる。無意識理の自己防御である。自浄作用といっても構わないだろう。そのために「距離」はひとまず横に置いておかなければならない。そのうちに置いていたことも忘れる。忘れなければ、というよりは忘れるようでなければ、ただでさえ限られた空間の中での船内生活は余計に窮屈になる。好むと好まざるにかかわらず(好まない側ではあるにしても)、それが人との付き合い方である。CCとであっても例外ではない。なるほどということ。

ただ肝心なのは、それが同質化を前提にしているかどうかという点である。たとえば平気で文句を言える人たちである。その人にとっては正当な文句だったのかもしれないが、わずかな案内上の滞り(通訳上の滞り)に遠慮容赦なく声を荒げられるということ――彼にはすでにCCたちとの間で創っていた原則(つまり「自己内距離)ともいうべき人格的関係からの束縛はない。遠くに追い遣られている。見えなくするために。CCは不当に平準化されてしまう。優位にさえ立たれてしまう。実際乗客という上位に立った立場での一声(文句)だけで。際立つ同質化の過程である。

しかし同質化はあり得ない。特例にすぎない。北ドイツ放送交響楽団の楽員たちのことを考えればよく分かる。たとえば楽員たちと来場者の関係である。終演後の楽屋裏での一場面である。それまで(楽屋裏に引き下がるまで)音によってのみ来場者と関係を結んでいた楽員は、詰めかけた熱烈なファン(きっとご婦人)から語りかけられれば、今度は声で応じる。会話が進めば新たな関係も生れる。そんな折、予想に反して品位を疑うような言葉が発せられたとする。思い描いていた(膨らませていた)印象が崩され落胆しかねない。でも「原則」は変わらない。「原則」とはあの音の響きを生みだした個人でありその存在であるという事実(それに伴う聴く側の自己認識)。むしろその時の彼との落差は、なにが本物であるのか真実であるのかを知らされる機会となる。

オーケストラという「声」を失った人(奏者)たちの集団。失ったなかで獲得されている真実。「声」を失うことなしには一員にはなれないこと、真実には至れないこと。だから来場者の立場であるということは、彼ら奏者の側のものでしかない「声」の外に置かれるということ。むしろ外に置かれたことを受け容れそれを前提にすること(条件にすること)で、このように彼(「声」を失っている彼)の前に立つことも許されるのだということ。況や自分の側への同質化など思いもよらないこと。まさにそれに尽きるのである。

楽員たちには本来の場所(「声」を失った場所)へ還ることができる。コンサートホールの舞台上へである。でもCCたちにはもう舞台はない。下船後のことではない。自己紹介の行なわれた舞台上のことである。正確に言い表せば、自己紹介後の次の日から始動した平準化の船内には舞台はないということである。同時にCC同士が舞台の上で聴き合った声はもう再現しないということである。
CC同士にしても特別の声だったはずである。自分の声として聴こえ「倍音」(ハーモニクッス)として聴こえていたもの。知らない自分さえ発見するかもしれない体内に聴く自分の声。メンバーの声であって自分の声であるもの。

再びキュンター・ヴァントと北ドイツ放送交響楽団。ヴァントが発見し楽員たちが実現した音の響き。数台のホルン、トロンボーン、トランペット、同一楽器群。それぞれの楽器のそれぞれの奏者(プレイヤー)が自分に聴き、同一列の傍らの(両隣の)もう一人の自分に聴き、聴きながら実現した同一音。その同一音に至る仕組み(仕掛け)が、オーケストラの全合奏に場を移して重奏的に再現されさらに未知の域に響き渡らせたもの。奇跡の「人間集団」。
 
 ――すでにCCに転化する必要はないだろう。それにヴァント&北ドイツ放送交響楽団のライブ演奏(来日コンサート)を聴き逃したことを惜しむ気持ちがまだ残っていたとしても、CCという「ライブ」を日々共にすることができたのだ。それだけで十分というわけだ。

2012年5月24日木曜日

[あ]2 『愛』―左手のピアニスト


[] 2 先夜(2012.5.22)の「クローズアップ現代」(NHK総合、19301956)。番組で取上げたのは「左手のピアニスト」舘野泉。タイトルは「音楽に身をゆだねて」。放映は、今年の5月(518日)から2年に亘る「左手の音楽祭」(「左手のピアニスト」としての集大成的なツアー)の開催に合わせて。

65歳の時、コンサートの舞台(在住地フィンランド)の上で最後の一曲を弾き終え、会場に向けてお辞儀をしている最中に脳出血で倒れた世界的ピアニスト。手術は不可能で残された回復の道は自力回復(リハビリ)しかない。「もう昔のようにピアノを弾くことは諦めるしかない」。苦悶の日々。そのピアニストが、絶望の淵から這い上がって「左手のピアニスト」になって8年。今や冒頭の「フェスティヴァル~左手の音楽祭 2012-2013」(全7回)を開催するまでになっている。「左手の音楽祭」だけではない。「坂の上のコンサート~舘野 泉と仲間たち」(全4回)も同時開催される。すでに往年のコンサート歴に匹敵するほどである。

現在75歳。右手の自由を失ってはじめて知った真の音楽。新たな音楽家としての再びの人生。その軌跡(奇跡)を辿った30分。最後はスタジオで国谷裕子キャスターによる本人インタビュー。圧巻の場面。

「恥ずかしいわ。自分が」(子秋)
「舘野泉のことね。わたしも観たわ。じゃもう一度訊くわよ。あなたなら『あ』で始まるものなに?」(顕子)
「『愛』……」
「そうよね、『愛』よね」

 
 倒れて1年半、何もできなかった(する気が起きなかった)と舘野泉は国谷キャスターの質問に答えた。左手のための曲があることは知っていた。両手で弾いていた頃も自分のプログラムで使ったこともあった。でもつまらないと思っていた。左手だけの曲は。本当の音楽ではなかった、そう思っていた。1年半とは本当の音楽から永遠に断ち切られることを受け容れなければならない時間(絶望的な時間)でもあった。

でも1年半後、アメリカに留学していた息子(長男)が一つの作品の楽譜を携えて(フィンランドの自宅に)帰ってきた。「こういう曲もあるんだよ」。左手のための曲だった。息子の思いの籠った楽譜だった。気がついた。その曲の真価に。「本の23秒だった」。気がついた時には自分のなかに「音楽」が戻っていた。「左手のピアニスト」が誕生した瞬間だった。

舘野泉のブログ(『風のしるし』www.izumi-tateno.comの「プロフィール」)にその間の経緯が記されている。
 
 「200219日、その年の初のステージをフィンランドのタンペレ市でもったが、最後の曲を弾き終え、お辞儀をしたところでステージ上に崩れ落ちた。脳溢血だった。右半身不随となり、リハビリに努めたが、一度破壊された神経組織はなかなか元には戻ってくれない。音楽に見放されたと思う日々は辛かった。友人たちは、「ラヴェルの左手のための協奏曲を弾けばよい」と慰めてくれたが、却って「おまえのピアニストとしての寿命も終わりだな」と宣告されたようで情けなかった。左手のピアノ曲なんて糞食らえだと思った。
 
 そんな私に生きかえる力を与えたのは、4年間シカゴに留学していた長男が、帰省する時に持ってきてくれたひとつの楽譜、ブリッジ作曲の「3つのインプロヴィゼーション」だ。

第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニストのために書かれた左手の作品である。弾いてみると蒼い大海原が現れた。水面がうねり、漂い、爆ぜて飛沫をあげているようだった。自分が閉じ込められていた厚い氷が溶けて流れ去るのが分かった。音楽をするのに左手だけあればなにひとつ不足はしない。充分にして十全な表現が出来る。そのことをしっかりと納得した。」

                                       ――「新たな旅へ」の第2回リサイタル・シリーズを迎えて(一部)
                                                 (2006年 「新たな旅へ」第2回リサイタルでのプログラムより)

  この話を思い起こすように語った舘野泉は、国谷キャスターの前で声を詰まらせた。話の途中だった。涙こそ堪えていたが、却ってそれが舘野泉の魂の震えであったことを物語っていた。しかもこの震えが観る者の胸をも詰まらせるのは、当時の絶望の深さや長男の愛情が麗しく偲ばれるからだけではなく、「左手のピアニスト」という在り方が、単なる不自由な身体の克服の証としではなく、音楽の再発見のそれであった、すなわち芸術家としての存在証明であったからである。

両手でなければ音楽ではない、単音だけの(ポリフォニーから切り離されてしまった)左手には音楽の深身がない、左手だけでは意味がない、舘野泉はそう思って自ら絶望を深めてしまう。だから左手の発見は、それが右手と違って使える手であっただけに劇的な出来事だった。啓示だった。たとえばよく言われることに何かを失ってはじめて何かを知るという格言めいた話され方がある。舘野泉の体験も表向きこの格言のなかにある。でも「左手のピアニスト」が体現していたのは「格言」ではなかった。何かを失ったのではないからである。右手は失われていなかったのである。あえて失われていたというなら、それはむしろ左手だった。その発見が心を打つのであった※※
 ※つまり右手によって左手ははじめて動かされた。しかも右手は左手を発見してそれで役目を終えない。右手の不自由は左手の前提であり、あり続けるからである。右手は左手によってしか知りえない音楽の真実を聴き分け続けるための条件だった。片側のための条件でもあり、同時に両側の条件でもあった。
 ※※それとも人によっては哀しい「条件」と言うだろうか。舘野泉の左手が創りだした音を聴いた人はそうは思わない。左手の音楽に自らも音楽を発見したからである。しかも左手はポリフォニックな音を創り上げるまでに進化する。「左手だけで弾くという制約から、舘野さんは左手の親指と人差し指でメロディ、残りの指で和音を弾き分けるなど常識を覆す奏法で、独特のうねりを生む」(「クローズアップ現代」HPより)までになっていたからである。

「まさに片側の『愛』……」(子秋)
「痛々しいほどにね」(顕子)
「だから『愛』」
「『愛』で埋められている。音楽という愛にね。左手が。左手だけであることが」
「決められてしまった変えられないこと、つまり左手であることは。そして左手だけであることのなかでのはじまり。決められていること、次を決められていることのなかでのはじまり。でも『愛』に包まれたはじまり。知らずにいた片側の『愛』……」
 二人はそれぞれの「片側」について思いを巡らせた。心地良かった。辿ってきたこれまでの生活に意味を感じられた。最初から語りあえる同士であったこともある。
 そして都会の中の公園。人々の空間であり自分の空間でもあること。他人でもあり自分でもあること。名乗らないだけで心を明け放っていること。明け放たれること。
 二人の出会いのきっかけ。それは公園の条件を語り合ったことだった。
 ――隔絶しているようでいないこと。
 ――中にいて外、外にいて中。
 ――もちろん名園は要らない。
 ――でも単なる避難所ではだめ。
 二人はここで昼食を摂る。近寄ってきた顕子が「よかったら」と言って差しだした食後のコーヒー。出会いの瞬間。

 そして今日は二人して「左手」で飲んでいる。

                     ――傍らのベンチから
                 (筒井康隆『愛のひだりがわ』を手にして)

2012年5月20日日曜日

顕子と子秋のシリーズ はじまりの頃(1話)

初出:2012520日日曜日(旧題「[あ] 1 顕子と子秋」)  補訂再編版:2019年4月23日火曜日

  1 ネーミング

季節なら「秋」。でも今は初夏。時刻なら「明け方」とか「朝」。でも今は昼時。処・場所なら? でも本籍・現住所・生地・転地先程度しか思いつかないけど。なら心の内なら。さっそくだけど「愛」では? 定番すぎる、これでは。たしかに。でもいいわよ「愛」でも……。投げやりな言い方ね。関心が湧かないみたいね、どうもそういう顔。
「ではあなたなら『あ』で始まるものなに?」
「訊いているのはわたしの方よ」
「そうだったわ。なら『あ』を重ねて『嗚呼』かな」
「なに思いついたのが、ただの溜息なわけ。ほかにないわけ。もっと前向きなもの」
「『嗚呼』ではだめ? あきれた? でも『呆れた』も『あ』からよ。見越していたわけではないけど」
「もういい。『アウト』、よく分からないけど」
 爽やかな五月の風に木々の緑が戦ぐ。公園のなか。ベンチの上。二人の上の高い空。
「名前を付けなければ。顕子でいい、わたしは」
「じゃ私は。子秋」
「コアキ? なにそれ、たんなる入れ替えじゃない」
「入れ替えじゃないわ。最初も最後もアキ。だからあなたでもあり私でもある。でも私の場合、『秋』の字を使ってるから今のところ出番なしかな」

 そうだった、二人はまだ名乗りあっていなかったのだ。本名でも好かったが、本名出してしまうとなにかこの自然な出会いも気分が薄れてしまう感じだったのだ。
 今、こうして名前を付け合う。「産まれたてみたい、わたしたち」と顕子。
 子秋も応える。  
「まずは顕子、あなたからよ。あなたの場合、『顕』だから季節に関係ないし、いつでもオッケーって感じ。実にあなたにお似合い。自分のこと知っているのね、顕子と付けられること」
「じゃ『子秋』は秋だけ。分の1だけ。出番は?」
「4分の1だけだって多すぎ。本当なら私は要らないのよ」
「寂しいこと言わないでよ」
「少しも。顕子だけで十分。分かったの。会った瞬間に」
「なにが? わたしが出しゃばりだとか、欲張りだとか」
「そうじゃないわよ。あなた十分控え目よ。でも、顕子、あなたに上げる、わたしの4分の1」

 話はどのようにでも始まっていく。あえて事件は要らない。必要な時に待っていたようにやってくる。それにこうして始まったからといって、次の一言でまた別の展開が待っているかもしれない。変わってしまうかもしれない。どうにでもなる、話も事件も。でもそのように好き勝手に思い描いたとしても、[]で始まったことには十分意味がある。[]の次が[]だからだ。
 しかたない。決まっていることだから。だからそれを活かして逆にゆっくり考える時間が与えられている、そのことを再評価してみる、という考え方に立ってみる。なるほど。
 でも決まったことだからと言え、五十音順の場合、それがたまたま[]だっただけのことで、別な決まり事でもかまわない。とくに自分の中に決まりごと(辞書というわけではない)があるならそれを使えばいい。借りてくることはない。要は変えられないこと、そこからはじめたとき、ゆっくり時間が使えるということ、それだけのこと。そして、今、「たしかに」と、顕子と子秋の二人が語り合っていたところ。
 でも二人がどのようにこれから時間を使かおうとしているのか(あるいは使ってきたのか)、「4分の(上げる)」なんてなぜ口にしたのか、その意味合いを含めてまだ話の先を待たなければならない。
今のところ遠くを見つめたままそれぞれの思い(相手の思い)に沈んでしまっているようだけど。

                          ――傍らからのベンチ報告


初出:2012524日木曜日(旧題「[あ]2『愛』-左手のピアニスト)  補訂再編版:2019年4月24日水曜日
  2 一つの話題~「愛」の左手~ 
 先夜(二〇一二年五月二二日)の「クローズアップ現代」(NHK総合、一九時三〇~五六分)。番組で取上げたのは「左手のピアニスト」舘野泉。タイトルは「音楽に身をゆだねて」。放映は、今年の五月(五月一八日)から二年に亘る「左手の音楽祭」(「左手のピアニスト」としての集大成的なツアー)の開催に合わせて。
六五歳の時、コンサートの舞台(在住地フィンランド)の上で最後の一曲を弾き終え、会場に向けてお辞儀をしている最中に脳出血で倒れた世界的ピアニスト。手術は不可能で残された回復の道は自力回復(リハビリ)しかない。「もう昔のようにピアノを弾くことは諦めるしかない」。苦悶の日々。そのピアニストが、絶望の淵から這い上がって「左手のピアニスト」になって八年。今や冒頭の「フェスティヴァル~左手の音楽祭 二〇一二―二〇一三」(全七回)を開催するまでになっている。「左手の音楽祭」だけではない。「坂の上のコンサート~舘野 泉と仲間たち」(全四回)も同時開催される。すでに往年のコンサート歴に匹敵するほどである。
現在七五歳。右手の自由を失ってはじめて知った真の音楽。新たな音楽家としての再びの人生。その軌跡(奇跡)を辿った三〇分弱。最後はスタジオで国谷裕子キャスターによる本人インタビュー。圧巻の場面。

「恥ずかしいわ。自分が」(子秋)
「舘野泉のことね。わたしも観たわ。じゃもう一度訊くわよ。あなたなら『あ』で始まるものなに?」(顕子)
「『愛』……」
「そうよね、『愛』よね」
 
 倒れて一年半、何もできなかった(する気が起きなかった)と舘野泉は国谷キャスターの質問に答えた。左手のための曲があることは知っていた。両手で弾いていた頃も自分のプログラムで使ったこともあった。でもつまらないと思っていた。左手だけの曲は。本当の音楽ではなかった、そう思っていた。一年半とは本当の音楽から永遠に断ち切られることを受け容れなければならない時間(絶望的な時間)でもあった。
でも一年半後、アメリカに留学していた息子(長男)が一つの作品の楽譜を携えて(フィンランドの自宅に)帰ってきた。「こういう曲もあるんだよ」。左手のための曲だった。息子の思いの籠った楽譜だった。気がついた。その曲の真価に。「本の二、三秒だった」。気がついた時には自分のなかに「音楽」が戻っていた。「左手のピアニスト」が誕生した瞬間だった。
舘野泉のブログ(『風のしるし』www.izumi-tateno.comの「プロフィール」)にその間の経緯が記されている。

  「二〇〇二年一月九日、その年の初のステージをフィンランドのタンペレ市でもったが、最後の曲を弾き終え、お辞儀をしたところでステージ上に崩れ落ちた。脳溢血だった。右半身不随となり、リハビリに努めたが、一度破壊された神経組織はなかなか元には戻ってくれない。音楽に見放されたと思う日々は辛かった。友人たちは、「ラヴェルの左手のための協奏曲を弾けばよい」と慰めてくれたが、却って「おまえのピアニストとしての寿命も終わりだな」と宣告されたようで情けなかった。左手のピアノ曲なんて糞食らえだと思った。
  そんな私に生きかえる力を与えたのは、四年間シカゴに留学していた長男が、帰省する時に持ってきてくれたひとつの楽譜、ブリッジ作曲の「三つのインプロヴィゼーション」だ。
第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニストのために書かれた左手の作品である。弾いてみると蒼い大海原が現れた。水面がうねり、漂い、爆ぜて飛沫をあげているようだった。自分が閉じ込められていた厚い氷が溶けて流れ去るのが分かった。音楽をするのに左手だけあればなにひとつ不足はしない。充分にして十全な表現が出来る。そのことをしっかりと納得した。」
――「新たな旅へ」の第二回リサイタル・シリーズを迎えて(部分)(「第二回リサイタルプログラム」二〇〇六年)

この話を思い起こすように語った舘野泉は、国谷キャスターの前で声を詰まらせた。話の途中だった。涙こそ堪えていたが、却ってそれが舘野泉の魂の震えであったことを物語っていた。しかもこの震えが観る者の胸をも詰まらせるのは、当時の絶望の深さや長男の愛情が麗しく偲ばれるからだけではなく、「左手のピアニスト」という在り方が、単なる不自由な身体の克服の証としではなく、音楽の再発見のそれであった、すなわち芸術家としての存在証明であったからである。

両手でなければ音楽ではない、単音だけの(ポリフォニーから切り離されてしまった)左手には音楽の深身がない、左手だけでは意味がない、舘野泉はそう思って自ら絶望を深めてしまう。だから左手の発見は、それが右手と違って使える手であっただけに劇的な出来事だった。啓示だった。たとえばよく言われることに何かを失ってはじめて何かを知るという格言めいた話され方がある。舘野泉の体験も表向きこの格言のなかにある。でも「左手のピアニスト」が体現していたのは「格言」ではなかった。何かを失ったのではないからである。右手は失われていなかったのである。あえて失われていたというなら、それはむしろ左手だった。その発見が心を打つのであった**

 *つまり右手によって左手ははじめて動かされた。しかも右手は左手を発見してそれで役目を終えない。右手の不自由は左手の前提であり、あり続けるからである。右手は左手によってしか知りえない音楽の真実を聴き分け続けるための条件だった。片側のための条件でもあり、同時に両側の条件でもあった。
**それとも人によっては哀しい「条件」と言うだろうか。舘野泉の左手が創りだした音を聴いた人はそうは思わない。左手の音楽に自らも音楽を発見したからである。しかも左手はポリフォニックな音を創り上げるまでに進化する。「左手だけで弾くという制約から、舘野さんは左手の親指と人差し指でメロディー、残りの指で和音を弾き分けるなど常識を覆す奏法で、独特の〝うねり〟を生む」(「クローズアップ現代」HPより)までになっていたからである。

「まさに片側の『愛』……」(子秋)
「痛々しいほどにね」(顕子)
「だから『愛』」
「『愛』で埋められている。音楽という愛にね。左手が。左手だけであることが」
「決められてしまった変えられないこと、つまり左手であることは。そして左手だけであることのなかでのはじまり。決められていること、次を決められていることのなかでのはじまり。でも『愛』に包まれたはじまり。知らずにいた片側の『愛』……」

 二人はそれぞれの「片側」について思いを巡らせた。心地良かった。辿ってきたこれまでの生活に意味を感じられた。最初から語りあえる同士であったこともある。
 そして都会の中の公園。人々の空間であり自分の空間でもあること。他人でもあり自分でもあること。名乗らないだけで心を明け放っていること。明け放たれること。
 二人の出会いのきっかけ。それは公園の条件を語り合ったことだった。
 隔絶しているようでいないこと。
 中にいて外、外にいて中。
 もちろん名園は要らない。
 でも単なる避難所ではだめ。
 二人はここで昼食を摂る。近寄ってきた顕子が「よかったら」と言って差しだした食後のコーヒー。出会いの瞬間。
 
そして今日は二人して「左手」で飲んでいる。
                
         ――傍らのベンチから(筒井康隆『愛のひだりがわ』を手にして)



初出:201267日木曜日(旧題[い]フライ(逆行))  補訂再編版:2019年4月24日(水曜日)

   3 季節の移ろい~フライ(逆行)~

月が改まる。木々の緑はさらに濃くなる。梢は緑の陰で重たくなる。空が幾分覗ける隙間がまだ残っている。梅雨の前に続く先月来の気温の高い日。時には荒れた日(先月)。毎年のこと。でも今年はひどかった。ここにきて少し落ち着いた所為もあり、梢を軽く揺らしながら吹き抜けていく六月初旬の風が頰に心地良い。木陰の下の微風。暑さと違ってその時季が到来するたびに新鮮に感じられる新しい月の風。六月の風。その風を受けながら考える『い』で始まるもの。

「何かが始まるってそれだけで意味(『い』音)あることなのね」(顕子)
「毎日だって何かが始まるってことなら一日(『い』音)ごとに違うはず。でも人はそうは思わない、同じことの繰り返しだと思っている」(子秋)
「そして、同じことの繰り返し、そうやって過ぎて行くことを私たちは日常と呼ぶ(「行く」が『い』音)。もしそうでなければ(そうやって過ぎて行かなければ)、日常はたちまち立ち往生。それでは非日常。ツネノヒニアラズ――になってしまう」(顕子)
「アラズ――か」
そう子秋が最後の「アラズ」だけを溜息つくように復唱すると、その口調が『嗚呼』を思い出させたのか、二人は顔を見合いながら照れ笑いをつくって「今のはなし」(「今」が『い』音)と無言で囁き合う。
枝から枝へと木々のなかを小鳥たちが勢いよく飛び移る。二人の頭上で交わされる鳴き声。曇りのない生き生きとした張りのある囀り。
前触れもなく一羽が二人の前に舞い下りてくる。わずか数メートル先。体から半径一m以内の範囲を探るかのように細長い体を二三度左右の方(かた)に振って、自信を得て地面を細い灰褐色の嘴で突つきはじめる。針金のような後肢二本で小刻みに動き回って尾の先でバランスをとる。知らず二人の側に上体が向く。距離を縮めるか逡巡している。
二人の「おいで」という無言の誘い声が鳥の上体を起こす。「(もっと近くに)おいで」という再びの誘い声。瞬時に体を逸らせて公園の中空(なかぞら)に向かって一気に飛び上がる。軽く跳躍しただけの小さな個体が、力強い羽ばたきで推進力の塊となって中空の高みを捉え、体勢を入れ替えて横向きに空中を滑って行く。
「鳥たちはアラズにアラズか」
「そうよ、アラズにアラズよ」

語義談:「アラズ」(以下「あらず」)。「あらず」の同義としては「なし」。「なし」の語義。以下に引くのは「哲学的」な本義を顕かにしたもの。

なし[無・亡]形容詞。「あり」の対義語であるが、「あり」に対しては古くは「あらず」ということも多かった。「あり」は「生()る」と関係があり、「なし」はそれに対して形容詞の形をとり、静止的な状態にあることをいう。「生()る」「在()る」ことの欠如態とみてよく、それでまた「あらず」という。(以下略)
――白川 静『字訓』(( )原文はルビ、傍線引用者)

次は「あらず」に充てられた漢字である「非」。ただし以下に見るのは「ヒ」と発音する音読上の字義として。なお、「あらず」(訓読した時の義=「訓義」)ではなく「ヒ」(音読したときの義=「字義」)で見るのは、和訓(あらず)の義(語義)との差異あるいは異同を確認するため。

【非】解字(冒頭部略)飛ぶ鳥の羽が左右にそむきあっているさまを示す。そむく意をとって、否定の意をあらわした。
            ――『角川漢和中辞典』(傍線引用者)

以上の訓・音読上の両義をもとにした場合の「アラズにアラズ」の意味(再解釈)。「訓義」から採りたいのは、傍線部の「静止的な状態にあること」と「『生る』『在る』ことの欠如態」の二点。すなわち、「(鳥が)アラズにアラズ」とは、静止状態にないこと、つまり活動状態にあること、まさに鳥が鳥たる状態であること。対照的に枝上にある場合の鳥。餌を狙っている姿態ではなく、羽を休めるためにとどまっている姿は、逆に「『生る』『在る』ことの欠如態」を体現することになる。たしかにその時の鳥の姿はか弱く見える。
 しかしその一方で「字義」から「そむく意」を知らされると、枝上に休止する姿さえ違って見えてくる。たちまちに柔らかな羽毛のなかに潜む身体性の秘密を目の当たりにすることになるからである。この身体に抱える込まれる二律背反的なもの、そして背反的なものと一体的にある力学構造。内部構造から生みだされる推進力(飛翔力)。一瞬にして枝上から飛び立てる瞬発力の秘密。すなわち鳥は、「アラズ」だけで「生り」かつ「在る」に至る。これこそが鳥の本来的な姿、「訓義」に隠れた「字義」のなかの姿であった。「非」の字義の先ではそう説かれている。
 そこでこの「非」(ヒ)を以て表される「あらず」。隠された字義から再解釈される「非日常」。つまりは「非日常」とは単に日常でないだけではなく、「日常」に背くことであったこと。生きることは「背く」であったこと。
 でもここで諭されたように(鳥に学んだように)当初から「背く」ことが常態であってそれとして生きること(自己のなかの「そむく意」=「背き」を生きること)が個体の自然な姿であるとしたなら、「日常」の方こそ実は不自然となる。その上で「訓義」を以って穏やかに再考すれば、かえって「日常」こそが「『生る』『在る』ことの欠如態」であり、「静止的な状態にあること」であり、しかも単なる静止状態ではなく「あらず」を内装したそれであることになる。

     *

再び地上に舞い下りてきて同じ地面を突きはじめる鳥。後を追うように舞い下りてくる別の一羽。最初に飛びたったラインを跨いで二人の側に向かってその距離を縮めようとしている。都会のただ中。鳥と人との間。公園の中で測り合う距離。あるいは都会のなかの距離より近いもの。自由との距離(であるかもしれない)。
「そむく意」のこちら側と向こう側――など意に介することもなく繰り変えされていく日々。今日を明日に繋ぐためには「そむく意」をゴミ箱に叩きこんで身軽になるに限る。でも無意識に「そむく意」を分かち合っている間柄であって、その時に備えている二人であることに次第に自覚的になっていく。
 やがて芽生えることになるかもしれない「アラズ」。一度芽生えてしまえば「アラズ」から「ヒ」へ。飛翔へ――「フライ」へと駆け上っていく彼女たちの中の「日常」。
そこで「フライ」。語尾に回ってしまう『イ』ながら、ひとまず『フライ』に『い』音を求めておくとする。しかし語尾にあることにはやはり抵抗感が残る。そこで逆行『い』音とする。こうすれば辻褄が合う。しかも単に体裁を整えただけでは終わらない。逆行には(「日常」に)「そむく意」(=「背く」)が植え付けられているからである。しかも「背く」には「飛翔」に負けず劣らずの内力がかかり、それを撥ねつけるためにさらなる躍動が生じることになる。躍動感を得た後では自然と、先に『い』音として印し付けておいた「意味」「一日」「行く」「今」も活気づくことになる。助詞に頼る必要もなくなる。「一日」の「意味」とか「今」の「意味」とかのように。
 それでも正統派を貫けば、逆さ読みするしかなくなくなる。因みに「イラフ(いらふ)」を古語辞典に当たれば、①「応ふ・答ふ」②「弄ふ」③「綺ふ・彩ふ」などが拾い出せる。①を採って(「日常」に)「答ふ(!)」と声を上げ正眼に構えるのもかまわないが、断るまでもなく青年向き。「美しくいろどる」「飾る」の意の③は女性向き。でもこの「綺ふ・彩ふ」は、単に「日常」を「美しくいろどる」「飾る」だけではない。彼女等二人の専任事項ながら、「背く」によって「美しくいろどる」「飾る」の意味も趣を異にすることになる。いずれにせよ、残るのは(「日常」を)「もてあそぶ」の意の②――なんとも疲れる一言。情けなくもある。言葉を「もてあそぶ」にとどまらず、「日常」を「もてあそぶ」とは。

     *

 結局、それ以上近寄ってこなかった小鳥たちは、再び中空に舞い上がり、自由な空を飛び交いながら地上との距離を広げる。ベンチから腰を上げて大きく深呼吸する二人。その先に小鳥たちの姿を捉え返す顕子と子秋。鳥を交えて交わし合った今日の公園。二人の職場は別方向。午後が始まる。
「じゃまた明日」
「ええ明日」
 手を振りながら笑顔で別れる。公園の出口に向かう二人の上空を舞う小鳥たち。流れるような滑降から大きくカーブを描いて反転。鳥たちが泳ぐ六月はじめの空。
             
                      ――傍らのベンチで見続けるもの一人